「淡海三船」が著した「唐大和上東征伝」によれば、「鑑真」が何度も遭難し失明した後もなお執拗に倭国に来ようとした理由は、南朝の「恵思禅師」が倭国王子に生まれ変わった、という言伝えを信じたからである、といいます。
「大和上答曰。昔聞南嶽思禅師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。又聞日本國長屋王崇敬佛法。」(『群書類従』による)
この言伝えでは「王子」であって「王」でないことに注目すべきです。これは「利歌彌多仏利」についての伝説が「唐大和上東征伝」に語り伝えられていると考えられます。言伝えは何らかの事実を下敷きにしていることが多いと考えられ、この場合は「生れ変り」というのですから、「恵思禅師」の死去した年「五七七年」と倭国王子の生まれた年が同一である、という可能性が高いものと考えられます。本来はこの点からも「聖徳太子」ではないといえるものです。
この言伝えは南朝「陳」の国で著名であったものですが、その後の『七代記』にも「恵思禅師」の生れ変りに関する記述があり、 その記述の中には「天台山」近くの「杭州銭唐館」にこの「生まれ変わり」説話が記された碑があるとされ、八世紀初頭の「唐」の国でも有名であったことがわかります。(この「碑」は「隋代」の設置ではないでしょうか)
(大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記)以下その部分の抜粋
「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」
ところで、この「言い伝え」(伝承)が作られた経緯はどのようなものだったのでしょう。また、それはいつ中国に伝えられたのでしょうか。
それは当然「南嶽禅師」の死後のことであり、また「碑」が建てられていたという「開元六年」(七一八年)以前でなければなりません。確かにこの間「遣唐使」は複数回派遣されているわけですから、彼らと折衝する中で生まれたと考えるよりないわけですが、これは明らかに「聖徳太子」に関わることとして伝えられたと思われます。
この「七一八年」以前に「遣唐使」「遣隋使」合わせると十回以上の派遣が数えられますが、伝承の内容から考えて「七世紀後半」以降の「遣唐使」が伝えたとは考えにくいものです。明らかに「初唐」以前の「遣隋使」との情報交換の中で作り上げられることとなったものと考えられ、そう考えると、「南嶽禅師」生まれ変わり説話というものは「天子」の対等性を主張した事と関係があると考えられないでしょうか。
この「天子」の対等性主張は「隋」とそれに続く「唐」の皇帝にとってみると許し難い言動であったかも知れませんが、「隋」「唐」により征服された「南朝」の関係者にとって見るとある意味「痛快」であったとも言えると思われます。
「漢」から続く「正統王朝」は「南朝」であったとする立場からは「倭国王」の発言はまさに「正鵠を射る」ものであったかも知れません。彼らから見ると「北朝」は「匈奴」であり、異民族そのものでした。「南朝」はそれまでも「北朝」を「索虜」(弁髪を意味する差別語)と呼び「蔑視」していました。そのような彼らが「皇帝」の位を「簒奪」したと考えた人達にとって見ると、「倭国王」の放った「対等性」の主張は非常に印象的であり、そのような発言をした「倭国王」が何か特別な人物として映ったことがあってそれが「偶像化」したということが考えられます。
元々「倭国」は「南朝」の歴代王朝と友好的であり、また「臣下」として存在していたものですが、それが「北朝」の「皇帝」に対して「対等」の主張をしたことが一種快哉を呼ぶものであったと言うことは充分考えられます。これらのことが少なくとも下地としてあって、「生まれ変わり」というような幻想的な伝承の発生につながったのではないでしょうか。
この伝承と直接関連しているのが「南朝仏教」の「倭国」への伝搬です。
「杜牧」(「杜甫」に対して「小杜」と言われた)の詩に「江南の春」というものがあります。(九世紀の中頃)
「千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」
有名な詩ですが、この歌が示すように「南朝」には「寺院」が多数ありました。この詩の中では「四百八十」と書かれていますが、今の南京付近には七百余りの寺院があったと言われており、「南朝」では仏教が非常に盛んであったことがわかります。
そもそも「南嶽禅師」の生まれ変わりとするからには「倭国王」の唱えた仏教に対する解釈が「南朝」的であったという事情がなければなりません。それを示すのが『法華義疏』(あるいはそれを含む「三経義疏」)ではなかったでしょうか。
『法華義疏』の解析からそこには「南朝仏教」の影響が如実に出ていることが明らかとなっていますが(南朝「梁」の「光雲法師」の説を「本義」としている)、この『法華義疏』については「聖徳太子」の書であると信じられており、古田氏も言うように(※)それは『書紀』に書かれた「聖徳太子」の仏教の「師」が主として「高麗」の僧である「惠慈」とされていることとは明らかに齟齬するものです。
『書紀』には「百済」からの僧である「慧聰」も太子の師として存在していたように書かれていますが、彼については来倭の日時さえ明らかではなく、また『書紀』ではその名が現れるのは来倭時点以外にはなく、その存在は限りなく希薄です。
その後の数々の伝承等には「惠慈」の存在が強調されており、彼の学んだ仏教が「高麗」からのものであり、それはまた「北朝系」のものであったことを示しています。それに対し「三経義疏」の内容は明らかに「南朝系」のものですから、その食い違いは従来から問題となっていました。
このことは「聖徳太子」ではない「倭国王」あるいは「倭国王子」が存在していたことを示すものであり、また彼の元には「南朝」の「経論」があったことが推測できます。その様なものはどのようにして入手されたものでしょう。
最も考えられるのは「百済」からです。「百済」はその仏教を「高句麗」を通じて「北朝」から受容したものですが、その後その「高句麗」が拡張政策により南下してくると、「百済」はその圧力に耐えかねて「首都」である「漢城」を奪われ、「王」を殺されるなど辛酸をなめることとなります。これ以降「百済」は「南朝」への傾倒を深めることとなった模様です。
「倭の五王」時代には「倭国」とともに「南朝」から「将軍号」を授与されるなどしているのがその現れですが、特に「梁」の「武帝」が深く仏教に傾倒するようになると「百済」もそれに対応するように「梁」から仏教に関する諸々のものを受容するようになったものです。
「百済」の「泗比城」の遺跡発掘などからは建築技術なども「南朝」(特に「梁」)からの影響が濃密であったことが判明しており、そのことは「経論」についても同様であったのではないかと考えられることとなります。
(いわゆる)「飛鳥寺」は「百済」の影響が顕著に見られ、その建築に関わる様式や「瓦」などの部材などに亘るほか、『書紀』に記されるように「工人」なども「百済」から招来した人々であるとされます。また『扶桑略記』などによれば「飛鳥寺」の「佛舎利」を「刹柱礎中」に置く儀式に「蘇我」一門が「百済服」で参加していたと書かれています。
「(推古)元年正月。蘇我大臣馬子宿禰依合戦願。於飛鳥地建法興寺。立刹柱日。嶋大臣并百餘人皆着百済服。観者悉悦。…」(『扶桑略記第三』による)
このように「飛鳥寺」についての全てが「百済」と関連づけられています。このことはこの「飛鳥寺」創建に関して「隋」は関与しておらず、「百済」から直接流入したことを示しますが、それは以下の資料が示すように「百済」からの『法華経』の伝来が「遣隋使」以前であったことからも推定されます。
「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」(『扶桑略記』による)
これはその「敏達天皇六年」という記述から「五七七年」という年次が想定され、その年に「百済」から「経論二百巻」が招来されたものであり、その中に『法華経』の経典があった、という事のようです。これに関しては『書紀』にも「大別王」に関することとして記事があります。(但し「大別王」という人物については全く不明とされます)
「(敏達)六年(五七七年)夏五月癸酉朔丁丑条」「遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。」
「同年冬十一月庚午朔条」「百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」
これらに書かれた「五七七年」という年次は「隋」成立以前ですから、「遣隋使」に先行する時期のものであるのは当然です。
この時点で「南嶽禅師」による経論(『法華義記』など)が倭国王の手に入ったものと見られ、それを元にして『法華義疏』が書かれたものと見ることができるでしょう。しかしそうであるとすると『法華義疏』を初めとする『三経義疏』の成立年代が「六一〇年代」とされていることは一種矛盾であるといえます。なぜなら「遣隋使」がもたらしたと思われる『法華経』には『堤婆達多品』が補綴されていたものと思われるからであり、その『堤婆達多品』についての言及が『法華義疏』に全くみられないことは不審といえるからです。そのことは『三経義疏』の成立年次が本来もっと早かったのではないかという疑いにつながるものであり、想定年代としては「遣隋使」以前であると考えるべきですから、「開皇年間」の前半、つまり「五九〇年代」の前半よりも古いことが推定されます。
そして、その『法華義疏』が「遣隋使」によって「逆」に「隋」や「唐」にもたらされ、それを見た「関係者」によって、その書きぶりがあたかも「南嶽禅師」の「再来」であるかのように思われたというのが、この伝承の成り立ちのきっかけではないでしょうか。
『法華義疏』が「唐」に渡っていたというのは「聖徳太子」について書かれた『聖徳太子伝暦』などから窺えます。それによれば、推古十五年(六〇七年)に遣隋使として派遣された「小野妹子」は中国衡山(南嶽)の地に到着し、「聖徳太子」が『法華経』を元にして『法華義疏』を書いたことを述べたとされています。(このルートは「倭の五王」の時代に利用されたものと思われ、同一航路を利用したと思われます。)
「…我本朝倭國也 在東海中 相去三年行矣 今有聖コ太子 無念禪法師者 崇尊佛道 流通妙義 自説諸經 兼製義疏 承其令旨 取昔身所持複法華經一卷 餘無異事…」
この時実際に『法華義疏』を持参したとも考えられ、そうであればこの時のエピソードから考えても『法華義疏』の内容を見た「衡山」の僧侶たちにより「恵思禅師」と重ねられて考えられたという事が推定できるでしょう。(後で述べますが、これが「開皇年間」の初めの頃と考えられ、最初の遣隋使としての派遣であったとみれば、矛盾はありません。)
(※)古田武彦「「法華義疏」の史料批判」(『古代は沈黙せず』駸々堂一九八八年)
(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/01/03)