「君が代」の最古型とも言うべきものが「我が君は」で始まる「古今集流布本」タイプであることが指摘されています。(古田氏などによる)これをモチーフとして用いた「薩摩琵琶」の「蓬莱山」の詞の中では「命長らえて」と歌われており、これは、この「和歌」が「我が君」の「長命」を願って作られたものであることを示唆するものです。
以下「薩摩琵琶歌」「蓬莱山」の「詞」です。
「目出度やな、君が恵みは久方の、光り長閑けき春の日に、不老門を立ち出でて、四方の景色を眺むるに「峯の小松に雛鶴棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が代は千代に八千代に礫石の巌となりて、苔の生すまで」命長らえて、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと云えばまた「堯舜の御代も斯くやあらん」斯程治まる御代なれば、千草万木花咲き実り、五穀成熟して、上には「金殿楼閣甍を並べ、下には民の竃を厚うして、仁義正しき御代の春、蓬莱山とは是とかや」(後略)」
この歌では「不老門」(宮の北側の門)から出ると「四方」が見渡せる、と謡われており、「宮の北側」は「山」であったことを示唆させるものです。これは「筑紫」宮殿(太宰府)の場合に適合するものと考えられます。
この「我が君」とは誰か、モデルとなった「倭国王」は誰かと考えた時に、注目されるのが「命長」という九州年号の存在です。
この「命長」年間としては「六四〇年」から「六四七年」の事であったと見られ、この間のこととして「善光寺」に「聖徳太子」が「願文」を送った、という善光寺文書があることについても、その内容とこの「君が代」(我が君)という和歌との関連があると考えられるものです。
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
前述したようにここでは、「斑鳩厩戸勝鬘」という人物が「困苦」している人物のために「済度常護念」ができるように助力を嘆願していると思われます。
「古田氏」が言うように、「長命」を願って「和歌」や「願文」が作られ、また「命長」と改元される、ということは、「倭国王」(我が君)の現状として「病」に倒れていることを推測させ、その回復を願う為になされた一連の作業であったのではないかと思料されるものです。
この「古今集」の「君が代」(我が君)は「題知らず、詠み人知らず」とされており、歌われた年代なども不明ですが、「命長」改元が「六四〇年」、「善光寺文書」の「願文」の日付が(後代の改定の手が入ってはいるものの)「六四六年」と考えられ、これらの年次から、この人物は『隋書俀国伝』に「阿毎多利思北孤」の「太子」と書かれた「利歌彌多仏利」である可能性が高いものと思料されます。
彼は、『隋書俀国伝』に「征戦」がない、と書かれたように「父」である「阿毎多利思北孤」の仏教による「全国統一」という事業を継承していたと思われます。それを示すように「蓬莱山」の中では「弓を袋に」「剣を箱」に納めてしまっていて、戦いの無くなった世の中であること物語る状況が謡われているようです。
また彼は「六二二年」と考えられる「阿毎多利思北孤」の死去以来、「命長」改元の「六四〇年」まで、「仁政」を布いていたものと考えられ、安定した国内状況であったものらしく、そのこともあり「長命」を祈る「和歌」が作られ謡われたものではないかと思料されるものです。
またこの「和歌」に出てくる「千代」「細石」「巌」「苔生す」などが近接して地名として存在しているのは「福岡」市の他はなく、また九州博多湾に浮かぶ「志賀島」の「志賀海神社」(祭神は「阿曇磯良」)で古くから行われている「山ほめ」の神事でこの「和歌」が「謡われる」事、あるいは「善光寺如来」への願文の送付の使者が「黒木臣」という「福岡」・「宮崎」に非常に多い名前の人物が登場するなど、諸々のことから考えて、この歌は「筑紫」(「博多」)で歌われ、その時点の「我が君」も「筑紫」(「博多」)にいた、という可能性が高いものと思料されるものです。
もちろん「薩摩琵琶」に採用されている、というのはかなり長い間「九州」内で謡われていた「伝統」のあるものということを前提にしなければ理解できない性質のものですから、この点でも「倭国王」と「九州」の関係の深さが覗えます。
また、「香椎」という「謡曲」中にも以下のように謡われています。
「是処は香椎の浜びさし。久しき国の名をとめて。海原や博多の沖に懸りたる。/\。唐土船の時を得て。道ある国の例かや。三韓も靡く君が代の。昔に帰る政事。我等が為は有難や。/\。」
ここでは「博多」(香椎)と「君が代」が何らかの関係があることを示唆する内容になっています。
また「難波」という謡曲では「仁徳」に関わる表現として、以下が書かれています。
「浜の真砂も吹上の。浦伝ひして行く程に。早くも紀路の関越えて。是も都か津の国の。難波の里に着きにけり/\。「君が代」の長柄の橋も造るなり。難波の春も。幾久し。雪にも梅の冬籠り。今は春べの気色かな。」
など書かれており、「君が代」が「仁徳」と関係があるように書かれていますが、その中に「吹上」という地名も確認され、これは「筑紫」の地名でもあるわけであり、ここでも「君が代」と「筑紫」、「君が代」と「仁徳」というものが浅からぬ関係にあることが判明します。
ところで、先述したように、この「君が代」は「志賀島」の「志賀海神社」の祭礼の際に「謡われる」訳ですが、その中では「君」とは「阿曇の君」であるとされています。つまり、「利歌彌多仏利」のための「歌」であるはずが、後に「阿曇の君」に対して使用されるようになったという事を示しています。
この事は当然「阿曇氏」と「利歌彌多仏利」に何か関係があることを推測させます。
「阿曇氏」の先祖と目されるのは「阿曇磯良」という人物であり、彼は「神功皇后」の「三韓征伐」の際に「水先案内人」的役割で登場するのが始めです。
つまり、「神功皇后」との関係でその存在が『書紀』中で語られているわけであり、その「神功皇后」が実は「阿毎多利思北孤」の母(鬼前太后)ではないかという事と、この「君が代」が「阿曇の君」のために歌われているという事実を考え合わせると、「利歌彌多仏利」は「阿曇系」人の人物と考えられ、「阿毎多利思北孤」の妻である「干食王后」の出身が「阿曇族」ではないか、と推測されるものです。
先述した「天孫降臨神話」との対応で言うと「山幸彦(彦火火出見)」が「利歌彌多仏利」のこととなると考えられますが、「山幸彦」は「海人」の娘「豊玉姫」と結婚したこととなっています。これは「利歌彌多仏利」が「阿曇族」と関係ができたことの反映したものと思われ、そうであれば「利歌彌多仏利」について謡われた「君が代」が、「阿曇の磯良」を祀る「神社」の祭礼で登場するというのも了解できるものです。
また、そのことは「七九二年」に提出された「高橋氏文」にも表わされています。この書は「高橋氏」の「膳夫」としての正統性を主張するためのものという性格の書ですが、この文書の中で「高橋氏」は「阿曇氏」について、「応神天皇」に仕えた「大浜宿禰」が最初である、という主張を行っているのです。(これに対して自分たちはもっと早い時期から仕えてるというわけです)
「応神天皇」は「阿毎多利思北孤」の投影と考えられますから、この事は「阿曇氏」と「阿毎多利思北孤」の関係がこの時代になって始めて成立したことを示唆するものであり、先の推測に重なるものです。
「神功皇后」は「宗像」系と考えられますが、対「新羅」との戦いにおいて彼らだけでは不足であった軍事力を補強する意味でも「阿曇族」と「婚姻」による「友好関係」を構築し、そのことがそれ以外の「松浦」水軍、「住吉」水軍等が加わる契機ともなったと考えられ、「統一水軍」が形成されたことが「倭国政権」の補強に重要であったこととなったと思慮されるものです。
「利歌彌多仏利」と「阿曇氏」が関係していることを示すのが、「近江」に存在していた「崇福寺」(志我山寺)という寺院です。この寺は「天智天皇」の発願であり、「六六八年」の創建と伝えられています。しかし、この「塔心礎」からは「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中には「無文銀銭」が存在していました。
「無文銀銭」が「当初」「新羅」から「隋代」に流入したものであり、「隋」との間の交易のために利用されたという先の考え方から行けば、この「崇福寺」についても「同時期」の創建とも考えられることとなります。
「崇福寺」が「滋賀」の地に建てられているのは、この地に進出していた「阿曇氏」を妻に持つ「利歌彌多仏利」であってみれば当然かもしれません。
「滋賀」は「阿曇」氏が進出した場所であり、そのため「筑紫」の「志賀」の土地名をそのまま持ってきていると思われるのです。
(作成日 2011/09/05、最終更新 2020/08/29)