『二中歴』などでは「金光元年」の干支は「庚寅」とされますが、これは「五七〇年」と考えられています。この「金光」という年号は『請観音経』の中にその由来を示す記述があります。
『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』(No.1043 難提譯)in Vol. 20
「時世尊告長者言。去此不遠正12主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門?。佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。」
つまり「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て金色に染まったとされています。
この『請観音経』の文章から「金光」という年号が想起されたものと見られますから、この「金光」という年号と「善光寺」という寺院の創建は『請観音経』を通じて関係があることとなるでしょう。
それは「縁起」の中にもほぼ同内容の文章があることからもわかります。
(再掲)「善光寺縁起」
「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」
ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
また「二〇一一年」に福岡市の「元岡古墳群」から出土した「剣」(刀)には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘が入っていました。正木氏の論ではこの「庚寅」は「五七〇年」であり、この剣は「九州年号」の「金光」元年に「九州王朝」がこの「天下熱病」という「魔」を退散させるべく鍛造したものであり、またこの時点での新天子(倭国王)の即位祝賀を兼ねて造ったものとされます。
この「剣」(刀)は「四寅剣」と呼ばれるものであり、主に半島(特に「百済」)で確認されるものです。
これは「寅年」の陰暦正月(寅月)の最初の「寅日」「寅時」に鍛えられた剣という意味であり、「寅」を「虎」に見立ててその勇猛さを「破邪」に役立てる意義であると共に、特に「庚」は「五行説」では「陽」であり「金」であるという考え方があり、「熱」に打ち勝つという意義があったものと見られ、これは「百済」において製作された可能性が高く、「百済」から「天下熱病」という事態に対応するための「呪術」のようなものとして『請観音経』と共に伝来したものと見られます。
この時の「天下熱病」というものが「天然痘」の流行を意味するものと考えるのは同様の表現が「敏達紀」にある事からの類推で判明します。(ただし年次には明らかにズレがあります。)
(五八五年)十四年春二月戊子朔壬寅。蘇我大臣馬子宿禰起塔於大野丘北大會設斎。即以達等前所獲舎利藏塔柱頭。
辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
三月丁巳朔。物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫奏曰。何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下。疫疾流行。國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。詔曰。灼然。宜斷佛法。
…天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。」
ここには「又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。」とあり、これから「瘡」の患者は「身を焼かれる如く」と表現されていますから高熱を発するものであり、(実際に「天然痘」に冒された場合40℃という高熱が出るとされますから記述には客観性があると思われます。)確かに「天然痘」の症状と見て間違いないものと思われます。
それは当時流行していた「朝鮮半島」からもたらされたものと見ることが出来るでしょう。当時は特に「百済」とは人を含めた文物の往来が頻繁であったことが推定され、そのような中で「病原菌」がもたらされたものと考えられます。それが仏教伝来と時期として重なっているのは偶然ではなく、半島においてもこの「熱病」の大流行に当たって、仏教にその救済を求めたものであり、それが倭国に渡来して「善光寺」に「生身如来」としておさまることとなった理由ともされるものです。
『善光寺縁起』巻一には次のように記されています。
「当此時分。釈迦如来於下東天竺毘舎離国[菴]羅樹園大林精舎上。説下請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経《上ヲ》。此経即明《二ス》善光寺《ノ》生身如来裟婆応現之由也。」( 五丁裏)
つまり「釈迦如来」が毘舎離国(ヴァイシャーリー)滞在した際に説いたという『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』が、「善光寺」の生身如来出現の由来を示しているとされます。
さらに『扶桑略記』によれば「善光寺縁起」からの引用として、その「毘舎離国(ヴァイシャーリー)」の長者が「釈迦」の教えに従い「西」に向かって「一心念弥陀如来観音勢至」すると「仏菩薩」が現れたとされ、その形を「金銅仏」で写し取ったとされます。そしてその「仏像」は「長者」の死後「百済」へ飛んでやって来たが、その後倭国に「浮き来たった」とされます。
(『扶桑略記』欽明天皇十三年条)
「善光寺縁記云。天国排開広庭天皇治十三年《壬申》十月十三日。従百済国。阿弥陀三尊浮浪来。着日本国摂津国難波津。其後経卅七ケ年。
始知レ有仏法。仍以此三体。為仏像之最初。故俗人号之。悉曰本師如来。小墾田推古天皇十年壬戌四月八日。依仏之託宣。忽下綸言。奉レ移信乃国水内郡。仏像最初。霊験掲焉。件仏像者。尤是釈尊在世之時。毘沙離国月蓋長者。随釈尊教。正向西方。遥致礼拝。一心持念弥陀如来。観音。勢至。爾時三尊促身於一?手半。現住月蓋門?。長者面見仏菩薩。忽以金銅所奉鋳写之仏菩薩像也。月蓋長者遷化之後。仏像騰空。飛到百済国。已経千余年。其後浮来本朝。今善光寺三尊。是其仏像也。已上出彼寺本縁起之文。」
このように「ヴァイシャーリー治病説話」の中心的な部分が「百済」や「倭国」に「飛来」したとされていることはその「百済」や「倭国」にそのような宗教に頼る必要のある重大な疾病が存在していたことを示すものであり、「天下熱病」つまり天然痘の流行に対応するために「善光寺」が建てられたという可能性を考えさせるものです。
そう考えると、「厩戸勝鬘」が「善光寺」へ救済を求めている理由も判明するといえます。それは「善光寺如来」が「天竺」にいたときに、「ヴァイシャーリー国」の「悪病」を治癒させた実績があったからであり、ここでも疾病特に「天然痘」に冒された自分ないしはごく親しい人に対する救済を願ったものと考えられるでしょう。だからこそわざわざ「善光寺」へ願文を送ったものと考えられる訳です。
またこのことは「天王寺」に「亀井の霊泉」と呼ばれる「泉」があり、これが「不老長寿」「病気回復」などの信仰を集めていたことや、「天王寺」に「四箇院」が併設されていた最大の理由も「天然痘」に対する救済を目指すものではなかったかと推察されることとなり、さらにその中で「上宮法皇」とその母、妻の三人同時死去という事態も同様に「天然痘」によるものではなかったかと考えられることとなるでしょう。
(この項の作成日 2014/02/02、最終更新 2015/01/06)