大阪の中心部、大阪城やその前身である石山本願寺などがあった「上町台地」上に「法円坂遺跡群」と称される遺跡が存在しています。これは「前期難波京」のさらに下層に存在しているものであり、総床面積が1500平米にもなろうという東西計16棟の建物群です。またこれらの建物群の存在時期として「五世紀後半」と考えられており、そのような時代にこれらの巨大な建物群が整然とした形で存在していたのです。
この遺跡の大きさと配列については「短里系」の基準尺の存在が推定されています。その復元された寸法は「南朝尺」である「24.4センチメートル」付近の値が措定されており(東側列倉庫群)、また「正方位」が既に指向されていることから、「倭の五王」の時代に先進的「南朝文化」が導入されたものと思われることと重なっており、「倭国王権」が主体となった「直轄」事業であることは間違いないと思われます。
「倭国王権」は幾度も「南朝」に対し「使者」を派遣し「将軍号」を授与されるなど関係を深めていたわけですが、それは「政治的」な部分だけではなく「文化」「制度」「宗教」など多岐にわたるものであったと考えるのが通常でしょう。そうであれば測量術など土木技術なども学んだという可能性を考えるのはそれほど不自然ではありません。
また同じく「上町台地」上に「難波大道」の存在が確認されています。後でも述べますが、この「難波大道」は「古代官道」の中でも「初期」に部類するものであり、それらに共通してやはり「南朝系」の「基準系」があることが確認されています。
この「法円坂遺跡群」は明らかに「前紀難波宮」に先行するわけですから、「難波大道」も「前期難波宮」に先行すると仮定した場合、必然的にこの両者に関係があると考えざるを得なくなるものです。
そもそも「法円坂遺跡群」は、その規模が非常に大きくこれが「一地方勢力」の範疇を遥かに超えるものであることは間違いありません。つまりそこに「倭国王権」が深く関与していることは確実であり、そのことと「難波大道」という同じく「王権」の関与無しには建設できるはずのない「インフラ」がほぼ同時期に存在している事の間には「直接的関係」があると考えるのは相当と思われるわけです。
ところで『書紀』に「難波」にキを構えた「天皇」として書かれているのは「孝徳」以前には「仁徳」がいます。「難波大道」記事が出てくるのも彼の時代のことであるわけですから、「難波高津宮」という「仁徳」の宮殿は「法円坂遺跡群」とどのような関係にあるか明確にする必要があるでしょう。
(ただし『書紀』や『古事記』による限り「仁徳」の年代としては「五世紀」ではなく「四世紀」が想定されていますが、それが実際と異なるであろうというのは種々の理由から明らかです。)
確かに「法円坂遺跡群」は「建物構造」として「蔵」がもっとも考えやすいものですが、それらの建物群の中には「棟持柱」を持つものがあり、これは「集会場」などに使用されていた実績が「弥生」や「縄文」の遺跡から確認されています。このことは一概に「蔵」つまり「倉庫」としての機能しかこれらの建物にないと決めつけるのは早計であるようにも思われ、「宮殿」あるいは「祭祀」につながる用途のものも推定すべきものと思われます。少なくともこの「建物群」の中に「宮殿」がなかったとしても近在には必ず存在していたと思われ、そのことと「高津宮」とが重なるとも言えるでしょう。
ただし、これらの「建物群」が「倉(蔵)」としての機能がその中心であったこともまた確かであり、その場合それが「邸閣」つまり「軍事用途」であったという可能性は十分にあると思われます。
「邸閣」とは『倭人伝』にも見られますが、「租賦」を収めるとされると共に『三國志』全体からの結論として「軍事」用途であって、「軍」に糧食として供出すべき存在であったと考えられています。
「法円坂遺跡群」の時代背景からも、また「武」の上表文からも「武」の時代に「東国」にその軍事的行動の範囲が広がったであろうと推定されることは確実であり、そのこととこの「法円坂遺跡」が関係している可能性もあり、「東国」に対する前進基地(ベースキャンプとでも言うべきでしょうか)を形成していたという可能性を推測させるものです。(その場合当然「糧食」だけではなく「武具・馬具・刀剣類」などの軍事物資も収蔵されていたと考えるべきでしょう。)
これがそのような「軍事」に関係している施設であるとすると、この場所に「中央官庁」があったとは考えにくいこととなるでしょう。そのことはこの「法円坂遺跡群」がある時期一斉に取り壊され、柱の一本も残さず抜き取られているという事実からも推定できるものです。(しかもその後「更地」になっています。)
これらの建物群の存在の背景として軍事的用途があったと見れば、その存在の「必要性」がなくなれば移動・撤去されるべき性質のものであったことは確かであり、軍事作戦の変更(他の地域への転進あるいは撤収)に伴うものというというようなことが考えられるでしょう。
これら「法円坂遺跡群」の存在は倭国王権の東方進出と重なるものと考えられますから、その技術的背景とともに「倭の五王」の時代が想定され、その設置時期としては五世紀前半、その撤収時期としては五世紀後半ないしは六世紀はじめが考えられるでしょう。
ただし「撤収」の意味としては、これが「東国」への支配が貫徹したからなのか、あるいは「武」亡き後方針変更等があり撤退したからなのかはやや不明ではあります。
このように考えてみると、想定される東国に対する軍事行動というものが、その発進地として明らかに近畿にはその中心がなく、近畿以西のどこかであると思われることとなりますが、最も可能性が高いのは「九州島」の中にその軍事的行動の原点があったと見ることではないでしょうか。
(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2018/11/06)