現存している「九州年号」史料に拠れば、九州島内で確認される九州年号資料は「熊本」「大分」「福岡」という北部九州地域に偏りを見せています。いわゆる「筑紫」「肥」「豊」三国は古代から非常に結びつきが強く文化圏としても緊密なものがあったと思われ、年号史料が多く見られるのもそういった事が理由と考えられます。
ところが、この三国も含め全九州から全く「九州年号」が見えなくなる時期があります。(それを記した資料が存在しない、という事)
それが「願転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」の各年号に渡る五十年ばかりのことなのです。これは、西暦で言うと「五九四年」から「六五二年」までの間です。この間、九州島内から九州年号が見えなくなるわけですが、かえって遠隔地であるはずの「奈良」「愛知」などで確認されているのです。また、遠隔地ながら九州年号発見例が多い「長野」「福島」でも、この期間はほとんど確認できなくなります。
また、これらの年号が九州島内から確認できなくなる期間は「法興」などの別系統年号と重なっている期間でもあります。しかし、その「法興」も九州島内ではなく、他の地域で確認されているのです。(「愛媛」、「奈良」、「滋賀」、「大阪」)
この時代は「阿毎多利思北孤」及び「弟王」である「難波皇子」と跡継ぎである「利歌彌多仏利」の時代に重なっています。彼らは『隋書』にも現れる、存在が非常に明確な人物です。彼らの存在証明とでも言うべき「地元での年号遺存」の状況が全く見られない、という事は彼らの統治が「筑紫」の内部に「及んでいない」という事ではないでしょうか。そして、「近畿」の地域を中心としてこの時代の年号が多く確認される、という事はこの時期「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」は「近畿」に政治の中心を移動させていたのではないかと推察されるものです。
「複都制」の詔により「難波」が「キ」となるわけであり、そこで壮大な宮殿の完成となります。これを従来通り「七世紀半ば」のことと捉えると、それ以前に「摂津難波」に何かしら、倭国王の拠点のようなものがあったのではないかと考えざるを得ないこととなります。つまり、「難波朝廷」が「なぜ」「難波」に設置されたのか、なぜ「複都制」が最初に適用されたのが「摂津難波」なのか、という問題につながるものです。
これに関しては「神功皇后」の時代に「住吉大社」の「支社」が「摂津」に作られた、という伝承が注目されるでしょう。
すでにみたように「神功皇后」の実際の時代は「阿毎多利思北孤」の時代と同時代と考えられ、その「阿毎多利思北孤」は「筑紫」に「宮都」を建設しているわけですが、それを首都としながらも、仏教布教のため、「附庸国」を巡行していったと思われ、その際に(「四天王寺」を移築して)「摂津」という「筑紫王権」の前進拠点とも言うべき地に「天王寺」を作ると共に、その地に「行宮(仮宮)」を造り、ここに居する事が長くなったものと思われます。
ところで、『二中歴』の「都督歴」によれば「最初」の都督とされる「蘇我日向」は「大宰」として「筑紫本宮」に赴任したとされています。ここで言う「本宮」というのは「仮宮」や「行宮」あるいは「離宮」などに対する用語であり、本来常住している「宮殿」を言うものです。つまりこの記述は「筑紫」に「本宮」つまり「本来の宮殿」があることを示すものといえますが、それが「孝徳」段階であるのは、『書紀』における「倭京」の初出が『孝徳紀』であることとつながっていると思われます。
(六五三年)白雉四年…是歳。太子奏請曰。欲冀遷于『倭京』。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于『倭飛鳥河邊行宮』。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。…」
つまり「孝徳」(難波朝廷)段階以前には「倭国王」は「筑紫」など「近畿」とは異なる地域にいたものであり、それを「倭京」と称したものと思われるわけです。そしてこの時点で「筑紫」から東方へ進出しその「前進拠点」として「難波」に「宮殿」を造ったことを示すと思われますが、これはいわゆる「難波副都」を指すものと思われます。そして、その段階で「蘇我日向」が「大宰」としてその「前進拠点」から「筑紫」へ戻されたとするわけですが、「大宰」は本来「王」と共にいるものであり、この時点で「倭国王」もまた「筑紫」に所在していたことが想定されます。そう考えると、この時点で「難波副都」にいたのは誰かということとなりますが、『書紀』ではこの時「難波」にいたのは「中大兄」ですから、これが現実の何らかの反映であるとすると「倭国王」の「太子」が「前進拠点」としての「難波」にいたという可能性を示唆するものと思われます。そして、「蘇我日向」は「大宰」と兼務として「都督」つまり「倭国」の「軍事力」の「元締め」として「筑紫」を「守衛」していたと考えられます。
また『二中歴』の「年代歴」によれば「倭京」改元は「七世紀初め」と考えられており、さらにその「二年」に「天王寺」が「聖徳」により創建されたと書かれていますので、この時点で「難波」に大きな拠点が築かれたことは確実と思われますが、これは『孝徳紀』のあるべき「年次」としては「七世紀初め」という時期がもっともふさわしいことを意味するものといえます。
ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまはるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。それらは「徳島県」(観音寺遺跡)など地方にも及んでいます。
この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったのではないかとされるものもあるようです。これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものです。このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えており、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」する際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
これに関して「古今集」の「仮名序」には以下のようにあります。
「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。」という風に書かれています。
この「仮名序」そのものは「紀貫之」の書いたものであると思われますが、「括弧」の中の文章は「古注」と呼ばれ、誰が書いたものか不明なのですが、非常に古いものであり、「古今集」成立から余り時間が経過してない時期のものと推察されています。そして、この「注」によると、この「なにはづ」の歌は「おほささぎ」つまり「仁徳天皇」に関わるものであるとされているようです。
この歌が、ここに書かれたような古いものであるのかどうかは議論が分かれていましたが、「法隆寺」を解体修理した「昭和の大修理」の際に、解体された五重塔の部材に(天井裏組木)「奈爾波都爾佐久夜己」と書かれているのが発見されています。
「法隆寺」の「五重塔」については心柱の伐採年が「五九四年」と確定しており、他にもかなり古い部材が使われているようにも見えますが、それとは逆にかなり新しい部材も使用されていることも判明しており、部材の構成が多様な面を持っています。このため、この天井組木についても確定した答えは出せませんが、もし古いものであったなら、移築前の「筑紫」段階で書かれたという可能性もあるでしょう。その場合は「七世紀初め」付近で書かれたものと思われ、この歌が捧げられたその時点で書かれたと言うことも想定できるものです。少なくとも、「八世紀」の初めには「五重塔」は建てられてしまっていますから、その直前(遅くとも「七世紀」の終わり)までにはこの歌が書かれたことは確実だと考えられます。
これを書いたのは、このような寺院などの建築に携わる人たち(宮大工)などと思われますが、彼らの間でも著名であった歌なのだと思われます。
ただし、これらのことは「この歌」の期限を確定させるものではなく、あくまでも下限を示しているものですから、「仮名序」に言うような「仁徳」のもの(つまり「四世紀」のもの)と即座に判断することはできません。
また「仮名序」の「紀貫之」の「本文」でも「みかどのおほむはじめなり」、つまり、帝(御門)というものが始められた最初の時に歌われたもの、と言う意味のことが書かれていますが、「仁徳」が実は「阿毎多利思北孤」の「弟」である「難波皇子」の反映ではないかと考えたわけですから、日本で最初に「帝」(御門あるいは天子)を自称したのは倭国王「阿毎多利思北孤」(というより「弟王」の「難波皇子」)だったのかもしれません。「難波皇子」という名称と「古注」の「なにはづにてみこときこえける時」という形容は見事に重なるといえます。
彼は「遣隋使」の言葉から判断して「隋王朝」が成立する以前から「阿毎多利思北孤」と共に「兄弟」で統治を開始していたと考えられ、その後「阿毎多利思北孤」が「倭国王」となった時点以降、彼が実務の面で「倭国」を代表する地位に就いた際に自らを「帝」(御門)の位置に置いたものと推量されます。そう考えるなら、「みかどのおほむはじめなり」という言い方がは実態に即しているともいえます。
つまり、この歌は彼の「帝」としての即位の際に「お祝い」として詠まれた歌なのではないかと考えられるものです。
また、「筑紫」の「志賀海神社」に古来から伝承されている歌にこの「なにはづ」の歌があることも明らかになっています。また、この「和歌」の中で詠われている「花」は「古注」にもあるように「梅」の事と考えられています。
「梅」は原産が中国であり、「倭国」には元々なかった木(花)です。これが「倭国」に伝わったのは「南朝」と交流が始まった「倭の五王」の頃のことと考えられます。
「梅」の発音は「むめ」ですが、本来これは「んめ」(nme)であったと思われ、これは「梅」の呉音「まい」(nmai)からの転音と思われ(漢音は「ばい」)、この言葉が南朝から渡来したことを示していると考えられます。
当時の「倭国」には「ん」の音が無く、そのため「n」の発音ができず、それを「u」で代用しているのです。
同様の例に「馬」「nma」→「uma」、「王」「wan」→「wau」、「阿吽の呼吸」の「吽(うん)」「n」→「un」などがあります。
「仁徳」が本当に『書紀』に書かれているような「四世紀末」の人物であるとすると、まだ「倭国内」には「梅」が伝来していない時期と考えられ、「なにはづ」の歌の人物としてはふさわしくないものと考えられます。
また、「外来種」である「梅」は、積極的に各所に根分けなどしなければ、広く各地の山野などで見ることができたわけではなく、そのためその後も「梅」は「筑紫」の「太宰府」付近でしか見ることができなかった模様です。今も「太宰府の梅」と言えば全国的に「梅の名所」で有名であり、中国から伝来した梅が最初に列島へ到着した地点が「筑紫」であったことを物語っています。
そして「梅」はその後「倭国王」を象徴する「花」となり、「花」と言えば「梅」と云われる起源となったものでしょう。
「なにはづ」に「天王寺」ができ、「仮宮」などが作られたときに「根分け」された「梅」が「難波」に植えられたものと推察されます。
(「梅」が根分けされ、植えられたことが理由で「難波」という地名も「筑紫」から移動したという可能性もあるでしょう)
『二中歴』の解析により「四八一年」に「漢和辞書」ができたと推定され、これを完成させるために編み出された「万葉仮名」を用いて、その後たくさんの和歌が詠まれたこととなったと思われますが、それらが「倭国」の人々の一般教養となったのだと思われます。
前記したように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。これらの「古集」は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」の「勅撰集」として編纂されたものと考えられます。
当然その中には「倭国王」の象徴である「梅」を読み込んだものもたくさん造られたことと思われ、「梅」伝来の地である博多湾岸の「筑紫の志賀海神社」にこの「和歌」が遺存しているのも理解できるものです。
また、この「なにはづ」の歌は、同時に「あさかやまかげさえみゆるやまのいの、あさきこころをわがおもわなくに」と言う、いわゆる「安積山」の歌と共に歌われたものと思われ、この二つはセットで詠まれる歌であったと推定されます。
仮名序でも「歌の父母」としてこの二つ歌は紹介されていますが、「紫香楽宮」跡地からこの二つの歌がセットで(裏と表)木簡に書かれているのが出土しています。
この二つの歌は「なにはづ」の歌が「春になって梅が咲くのと同じようにあなたも事を起こすべきです」、と言う意味であり、それに対する「返答歌」として「安積山の井戸が自分の姿が見えるほど浅いのと同じぐらい浅い気持ちでいる訳じゃない」と、「本気」であることを宣言している歌なのだと思われ、一種の「問答歌」と思われます。「仮名序」に「即位まで三年待った」とあるように「帝(天子)」を自称すべきかどうか迷いがあったのだと思われ、周囲に促された時の歌が「なにはづ」の歌ではないかと思われるのです。
この二つの歌「なにはづ」と「あさかやま」が「歌の父母」として仮名序に書かれているのは、つまり、誰でも知っている、非常に有名な歌である、ということを意味すると思われます。なぜ誰でも知っているかというと、公的な場で多くの人の面前で声に出して詠まれる歌だったからではないでしょうか。大型木簡に書かれていたのは、遠くから見てもわかるように、という意味であり、それは即座に多くの人が集まっている場を想起させるものです。
また、このことは「紫香楽宮」で聖武天皇が「遷都」など儀式を行なった際に「なにわづ」「あさかやま」を読み上げていた事を推定させますが、彼にとってこの儀式は「特別」な意味を持っていたものと推察されます。
彼は「不改常典」を遵守することを誓約して即位しているわけですが、(私見では)この「不改常典」が「十七条憲法」を意味すると考えられるわけであり、その「十七条憲法」の制定は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」によるものと考えられますから、「なにはづ」の歌を詠ずるという儀式は、「不改常典」と共に「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」への尊崇を表明するものとなっていたことを推定させるものです。それは彼が「出家」した際に「沙弥勝満」という「法号」を授与されていることからも分かります。
この「勝満」は「斑鳩厩戸勝鬘」という名称から流用したと考えられ、これが「聖徳太子」を指して使用されていたことは(これは誤用と思われるものの)確かであると思われ、その「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の合体の投影ともいうべき存在ですから、聖武天皇の「尊崇」の対象も実は「聖徳太子」というような人物ではなかったと考えられるものです。
「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」は「天子」(皇帝)を宣言し、「改新の詔」などを初めとする「大改革」を実行し、「聖帝」とされたわけですが、彼を「尊崇」することを「表明」していると云うことから、「聖武」も自らを「天子」や「聖帝」として意識していたのではないかと考えられますが、それは「聖武」を「あめのみかど」と称する「歌」や「解釈」が残っていることからも、推察できます。
この「あめのみかど」という「呼称」に関しては「山田孝雄氏」の詳細な研究があり、それは「天智」を指すというそれまでの解釈を否定するものでした。彼はその研究の中で「あめのみかど」という語について『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされており、これは「先帝」という「語」の用法にも言えることと考えられます。
この「あめのみかど」という一見「天皇」の普通名詞的な呼称が特に「聖武」に限って使用されていたということの中に「聖武」の「神聖性」が浮き出ていると思われます。それは「先帝」といえば「聖武」を指すものという事がこの時代以降形成されたことを示すのではないでしょうか。
「なにはづ」の歌が書かれた「木簡」が「紫香楽宮」から発見されていることは、彼が「利歌彌多仏利」の「神聖性」を継承したという意味があったものと見られ、「大仏建立」などの事業を行なったのも同じ意識からであったという可能性があるでしょう。
(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2016/02/07)