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古代の官道について


 
 古代には「五畿七道」という言葉がありましたが、その「七道」については、以前「人馬」がやっと通れる程度ではないかという考えが支配的でした。それは「江戸時代」においても「中山道」(旧東山道)などの広さ(幅)はせいぜい「二間二尺(約4.2メートル)」程度であったからです。
 しかも年次が下るにつれ、どんどん狭くなっていった様子が見て取れ、これからの類推として、それ以前の時代の「道幅」がそんなに広いはずはないと考えられていましたが、各地で発掘された遺跡及び「航空写真」や「衛星写真」などの活用により、古代の「官道」が急速に露わになってきた結果、全く予想と違うことが明らかになっています。
 それによれば「幅」は最大40m以上、しかも道路は「直線」であり、途中に「何」があっても各地方拠点を「最短距離」で結びつけることを意図しているようであって、そのために「沢」を埋め、「溜め池」を作り、「堤防」を作って進んでいます。
 またこの道路は「盛り土」をして「下層部分」に「木の枝など」を敷き詰め、その上に「版築工法」により土を突き固め、「土留め」などをして容易に崩れたり、ぬかるんだりしないような構造にしています。(これは「筑紫」の防衛線である「水城」の構造と酷似していると考えられます)
 更にその両側に「側溝」を造り、雨水の排水を考慮していますが、その幅も2メートル以上あると見られ、相当の豪雨でも「道路」が冠水しないようになっていたものと見られます。
 このように造られた「官道」の総延長は「6300キロメートル」ほどあると見積もられ、これは「現代」の高速道路の総延長(6500キロメートル)とほぼ同じ距離であるとされます。
 このような「古代官道」がいつどのような経緯で造られたものか推定してみました。