「法華経提婆達多品」に出てくる「娑竭羅龍王の娘」と深く関係しているのが「厳島神社」です。
その「厳島神社」の祭神は「女性」と考えられているようです。その「創建説話」によれば「祭神」は「宗像三女神」の内の一人である「市杵島姫神」であるとされています。
また別の伝承(平家物語)では「厳島神社」を開いたとされる人物は「娑竭羅龍王の娘」という表現がされており、「宗像氏」との関係が示唆されています。その中では、「龍王の八歳の娘には妹」「神功皇后にも妹」「淀姫には姉」というように記されており、ここでも「女性」であることが明示されています。
この「厳島神社」の創建伝承の中に「神功皇后」の名前が出ていますが、これは一見「唐突」のように思えます。なぜなら現行『書紀』や『古事記』を見る限り、「神功皇后」と「厳島神社」では全く時代が異なるからです。
「神功皇后」は「応神天皇」の母であり、『書紀』では「三世紀」、『古事記』では時代不明ながら「四世紀」と推定されており、「厳島神社」が創建されたという「六世紀末」とは全く時代の様相が異なると考えられます。しかし、『書紀』で「神功皇后」が「三世紀」の人物として描写されているのは、「卑弥呼」との同一化を図ろうとしたからに他ならなく、実際の「神功皇后」が「卑弥呼」とは違う時代の人物であるのは間違いないと考えられます。
ここで『書紀』や『古事記』の年次に疑いがあることが明確になっているのですから、「厳島神社」と直接関連した存在であったとしても不思議とは考えるべきではないこととなるでしょう。それは単に「先入観」に過ぎないからです。
そもそも「神功皇后」がそれほど「古代」の存在であるなら、その「子孫」という表現ならまだしも「妹」であるとかの関係付けに何の意味があるかと言うこととなってしまうでしょう。
このような「説話」がその「神社」などの「権威」の向上に寄与するためのものであるとすると、当然それは「広く」多くの人々に伝えられ、語られるものであることとなり、そのような事を考えると、この時点で「神功皇后」と関係づけられるべき人物は「実在」していたと想定すべきであり、(そうでなければ「説得力」に欠けるものとなってしまいます)「厳島神社」に関わる伝承は「実際」の人物の相互の関係を表していると考えるべきでしょう。
「厳島神社」の創建と伝えられる時代から考えて、この「神社創建」と「阿毎多利思北孤」や「弟王」である「難波皇子」や「太子」「利歌彌多仏利」との間に何らかの関係があるのは確かであると考えられます。彼等は「同時代」を生きていたと考えられるからです。
古賀氏により研究されていますが、「倭国王」はこの時点で「瀬戸内巡行」という「仏教布教」の行脚を行ったものと見られますが、その様な事が可能となったのは「瀬戸内」の「制海権」を手中にしていたことがあると見られ、ここにも「水軍」(特に「宗像勢力」)の支援があったことは確実と考えられますから、その「巡行」は「宗像君」の「娘」である「市杵島比売」と二人三脚であったことと推測できるものです。
この「市杵島姫」は「神功皇后」の妹とされていますから、結果的に「阿毎多利思北孤」の「叔母」に当たる存在であったと考えられ、「阿毎多利思北孤」と「瀬戸内巡行」を行い、「各地」に「法華経」と「習合」した新しい「宗教」を布教すると共に、その後「難波」に「拠点」(「四天王寺」)を創建し、またその地に「仮宮」を作ると、そこに「姉」である「鬼前太后」などと共に「施薬院」を営んだものと考えられます。(この「阿毎多利思北孤」と「市杵島姫」という両者の関係はまさに「推古」と「聖徳太子」の関係に重なるものです。これは明らかに意図的であり、『書紀』編纂の際に彼等に似せて『推古紀』を構築したものと推察されます。)
ここで彼等が関係していると考えられる「宗像氏」は「娑竭羅龍王」に擬されているように、「水軍の雄」であり、典型的な「海人族」であると考えられます。
このような「氏族」が「王権」の強力支援勢力となっている事実は、「阿毎多利思北孤」の出自についても「宗像氏」と深い関係にあるのではないかという推測が可能となります。
そもそも、この時点の倭国王権は「筑紫周辺」の「水軍」(海人族)である「宗像」「安曇」「住吉」「松浦」などの勢力をその傘下に入れていたものと考えられ、非常に強力な軍事力を手中に入れていたことが推定されるものです。そのことが「厳島神社」創建に関連して「神功皇后」が出てくることにつながることにもなることと推測されます。
この「厳島神社」の創建の日時についても「五九二年」という年次に開基されたことが記されていますが、そこでは「端正(元年)」という「九州年号」が使用され、ここでも「宗像氏」同様「筑紫」との関係が強調されています。これらの年次はすでにみたように「隋初」段階であり、「隋」に使者を送り、「隋」の文物の吸収を始めた時期に当たりますが、その時点の「隋」の皇帝である「文帝」はそれまで弾圧されていた仏教の回復と保護を主たる政策として打ち出していました。これに「倭国」が反応しなかったはずがなく、この時点で「倭国内」に仏教を(文帝同様)国教とする動きが強まったといえるでしょう。この「厳島神社」の伝承はそれを表したものといえると思われます。(実際には「文帝」からの「訓令」に対応したものと思われます)
また、「善光寺文書」の中に出てくる「黒木臣」の「黒木」という「姓」は、現在で「宮崎・福岡」に非常に多く、他県には「皆無」と言っていいぐらいの集中度を示しています。このことから、「黒木臣」が「甲斐」ではなく「筑紫」或いは「日向」の人間であるらしいことが推測できますが、そのような人物を使者にしている「厩戸勝鬘」という人物も「筑紫」に強く関連した人物である可能性が強いと推測されます。
また「古賀氏」の指摘にあるように、この「善光寺文書」の中の「命長七年丙子」という年次は「矛盾」しており、本来は「命長七年丙午」であったと見られ、「命長七年」という年次が「定点」として意識されているようですから、本来まさに「九州年号」で記された「筑紫」系史料であるという可能性が強く、それは「筑紫」と「諏訪」など「信濃」地区との関連から考えても、「宗像氏」との関連が考えられるところです。
(この項の作成日 2012/11/16、最終更新 2016/02/07)