ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の「三十四年遡上」:

「正木氏」による「三十四年遡上」について


 この「三十四年遡上」研究は、そもそも「古田氏」の研究に端を発しているものです。
 「古田氏」はその著『壬申大乱』において「持統」の吉野行幸の日程記事の中に「不審」な「日付干支」があることを発見し、その「日付干支」が存在しうる年月を調査した結果、「三十四年前」の同月にそれが存在している事を知り、そのことから「持統行幸」記事の全体が「三十四年移動」されているのではないかという考えに至ったものです。
(以下『書紀』の当該記事。)

「(持統)八年(六九四年)夏四月甲寅朔戊午。以淨大肆贈筑紫大宰率河内王。并賜賻物。
庚申。幸吉野宮。
丙寅。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
丁亥。天皇至自吉野宮。
庚午。贈律師道光賻物。
五月癸未朔戊子。饗公卿大夫於内裏。」

 ここで「吉野宮」から戻った「日付干支」として書かれている「丁亥」がこの年の四月に存在していなかったということから、研究が始まったわけであり、その結果「三十四年遡上」した「六六〇年」の「四月」の記事がここに移動されているという推定に達したというわけです。
 「正木氏」はこの研究に触発されて、「持統」の「吉野行幸記事」以外にそれと同様な例を捜された結果、「孝徳天皇」の「葬儀記事」が『天武紀』に書かれた「天武」の葬儀記事へと移動されていると考えられることを発見され、さらにその後『持統紀』と「斉明紀」の双方の「蝦夷記事」において、登場する「蝦夷」の人数が正確に一致することを発見され、これが「同一記事」であるとしか考えられないとされ、さらに追加としての例を「難波副都」関係の記事に見い出したものであり、その「副都制」の「詔」についてそれが「天武朝」に出されたとすると重大な「矛盾」であることを指摘した上で、「三十四年遡上」により『孝徳紀』に書かれた「難波宮殿」関係記事と非常に良く整合すると云うことを論究されたものです。このような中で「古田氏」が提唱した「三十四年遡上」が「吉野行幸」以外にも存在している事が確実となったという「研究」の経緯があると承知しています。
 これらの研究により提出された理解により、『天武紀』から『持統紀』にかけての多くの記事で「三十四年遡上」という重大な「改定」が『書紀』の編纂過程において行われたと見られることとなり、『書紀』の「編纂過程」とその構成の理解において重要な段階に至ったものと考えられるものです。
 
 しかし、この「契機」となった「古田氏」の研究を検証すると、それは「不完全」のそしりを免れないと思われます。
 「丁亥」という日付を求めて「三十四年」遡上した「六五〇年」なら「四月」にそれが存在するとしたわけですが、その場合「同じ月」の日付として書かれている干支である「戊午」「庚申」「丙寅」「庚午」は全てこの月に存在できなくなってしまいます。つまり「吉野宮」からの帰還日である「丁亥」だけが「三十四年遡上する」と言うことになるわけですが、そのような想定は「恣意的」ではないでしょうか。また、もしそのような記事移動が行われていたとすると、「庚午」の後ろに配置しそうなものだとも思われます。(干支の並び順では「庚午」よりも番号が後ですから)
 このような場合整合する月を探すのであればそこに書かれた日付干支が全てその月内に収まるような年次を探すべきではないかと考えられ、方法論として片手落ちであるといえるでしょう。(これを満たす年次は存在しており、それは「六八三年」です。この年は「四月」の朔干支が「戊午」であり、「丁亥」は「三十日」として存在し、それ以外の干支も全てこの月内に収まります。)
 しかし、実際的な話をするとこの「丁亥」は「丙寅」と「庚午」に挟まれるように書かれていますから、「丁卯」の書き間違いである可能性の方がよほど高いと思料します。ちなみにこのような「日付干支」の書き間違いは『書紀』内にかなりの数が確認されており、ここだけの話ではありません。しかし、ここでは、「丁卯」の「書き間違い」ではないという積極的な証明のようなものは何も行われていないのです。
 つまりこれは「正木氏」の基礎となっている「古田氏」の「三十四年遡上」というものが本当にあったのかという点で既に疑わしいものであり、そうであれば、それを補強するかのように次々と書かれた「正木氏」による事例も当然、同様に深い検証手順を経る必要があると思えます。

 以下に「正木氏」より提示された「三十四年遡上」の例を挙げて逐一検証してみます。