ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の「三十四年遡上」:「正木氏」による「三十四年遡上」について:

「八色の姓」について


 「八色の姓」については「天武十三年」(六八四年)に以下の記事があります。

「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔条」「詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下萬姓。一曰眞人。二曰朝臣。三曰宿禰。四曰忌寸。五曰道師。六曰臣。七曰連。八曰稻置。」

 しかし、「二〇〇九年」になって韓国の古代の「百済」のキである「扶余」の遺跡から「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と書かれた「木簡」が出土したのです。この遺跡の年代としては「七世紀中頃」と考えられていますし、そもそも「百済」は「六六〇年八月」に「滅亡」しますから、これ以前の遺跡と考えるのが妥当というものでしょう。
 ここに書かれた「ナ尓波連公」というのは「難波連」のことと考えられますが、『書紀』には「難波連」という人物については、「天武十年」(六八一年)年正月に、「草香部吉士大形」に「難波連」という「姓」(かばね)を授けた、という記事があります。

「天武十年」(六八一年)「春正月(中略)丁丑。是日。親王。諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿。共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位。仍賜姓曰難波連。」

 この記事は不明な部分が多い記事ではあります。そもそも「賜姓」の理由が不明です。この「草香部吉士大形」に何らかの「功」があったものと考えられますが、『書紀』中には何も書かれていないのです。また、「賜姓」とありますが実際には「難波」という「氏」(うじ)も与えられているようです。「姓」は「連」部分だけをいうものであり「難波」というのは「氏族名」です。本来「氏」を新たに与える場合はすでに存在している「氏」名は避けるものです。でなければ「同族関係」が混乱するからです。
 しかし、ここでは、「草香部氏」である「大形」を「難波氏」に変更しているわけですが、これが「昇格」を意味していると言う事から、「草香部氏」は「難波氏」に仕えるような「一支族」であったのかもしれません。
 そして「吉士」に変え「連」を与えているわけですが、「吉士」が渡来系氏族に特有の「姓」であるところから考えてあくまでも「外様」的扱いであったものと思われますが、それをより「倭国王権」中枢に近い立場(「譜代」的立場)に変更する、という「優遇策」を与えたものと思慮します。
 また、このことはあくまでも「大形」個人に関連することと考えられ、「難波」氏族全体として「連」に変わったということは意味しませんし、「草香部氏」が全て「難波氏」に変わったと言う事も意味しないものです。
 ただし、明らかにこの「難波連」という「存在」は『書紀』による限り「六八一年」以前には存在しない「はず」のものであることは確かです。そして、その「存在しないはず」の「難波連」という名前が書かれた木簡が「六六〇年以前」と考えられる遺跡から出土したこととなります。
 この「賜姓記事」を正木氏は「三十四年」移動の対象として考えられておられ、それは「六四七年」のこととされているわけですが、確かにこの時点であれば「木簡」の記載と矛盾しません。但しこれについても「記事移動」は確かとは思われるものの、それが「三十四年」で動かないかというと問題でしょう。

 すでに見たようにこれらが「三十五年移動」の対象とすると、「天武十年」の「難波連」賜姓記事は「六四六年」のこととなりますが、こう考えても不都合はありません。いずれにしても、この「賜姓」記事はその後実施される「八色の姓」改制と一環を成すものと考えられ、この「難波連」賜姓記事の「記事移動」という考えが「合理的」であるなら、「六八四年」の「八色の姓」制定記事についても同様であるのは当然といえます。
 
 また、「八色の姓」は「難波」副都事業の一環と考えられ、「評制施行」等「難波遷都」に併せて(あるいは先立って)行われた諸事業のひとつであり、諸国(地方)の有力者に対して「臣」「連」という「姓」を与えることによって、「遷都」への地ならしとしたものと思われます。本来「倭国」の「本国」だけに与えられていた「臣」「連」という「姓」を「諸国」の人間にも与えることで「懐柔」したものと思料されます。
 「倭国王権」に近いところの氏族には新たに制定した「真人」「朝臣」「宿禰」「忌寸」「道師」という「高位」の姓を与え、(実際には「道師」の賜姓記事はありませんが)下位ランクの姓を「評制」施行により新しく統治範囲に組み入れた「東国」の諸王などに与えたものと推量されます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/08/25)