「蝦夷」と同じ文脈として「隼人」記事があることには注目するべきです。
以下に『書紀』の中で現れる「隼人」記事の内「斉明紀」以降について書き出してみます。
(イ)斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及■彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。
(ロ)天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
丙辰。多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。
(ハ)天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。
(二)「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。」
(ホ)「持統元年(六八七年)五月甲子朔乙酉条」「皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。於是隼人大隈阿多魁帥。各領己衆互進誄焉。」
(へ)秋七月癸亥朔辛未条」「賞賜隼人大隅。阿多魁帥等三百卅七人。各各有差。」
(ト)(六八九年)三年春正月甲寅朔。天皇朝萬國于前殿。
乙卯。大學寮獻杖八十枚。
丙辰。務大肆陸奥國優耆曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂。與鐵折。請剔鬢髪爲沙門。詔曰。麻呂等少而閑雅寡欲。遂至於此蔬食持戒。可隨所請出家修道。
庚申。宴公卿賜袍袴。
辛酉。遣新羅使人田中朝臣法麻呂等還自新羅。
壬戌。詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。是日。賜越蝦夷沙門道信佛像一躯。潅頂幡。鍾鉢各一口。五色綵各五尺。綿五屯。布一十端。鍬一十枚。鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等獻隼人一百七十四人。并布五十常。牛皮六枚。鹿皮五十枚。
(チ)持統九年(六九五年)(中略)
五月丁未朔己未。饗隼人大隅。
丁卯。觀隼人相撲於西槻下
(イ)の「六五五年」記事では「内属」という用語が使用されています。この語はそれまで「倭国」の版図には入っていなかった領域が「倭国」に組み込まれたことを示すものですが、それはそれ以降の時期に「朝貢」記事(「ロ」)があることと矛盾します。「朝貢」という用語は本来「皇帝」(天子)の統治領域の「外」からの貢献という意味であり、「朝貢」する国は言ってみれば「外国」です。ですから「朝貢」記事が「内属」記事に先行して当然のはずが「逆」になっているのです。
従来これら「隼人」関連記事の中では『天武紀』(六八一年)記事が信頼の置ける最古のものであるとされており、これ以降「隼人」は「朝貢」をするようになったものであり、その後次第に「ヤマト王権」に組み込まれていくという文脈で語られることが多いのですが、そう考えざるを得なかったのは「朝貢」記事よりも、「内属」記事の方が「年次」的に先行している点が「不審」であったからだと思われます。つまり、それ以前の「隼人」記事については「潤色」であり、後代の「追記」ないしは「変改」であるとされているのです。例えば「履中記」における「墨江中王」関連記事(説話)などについても、それがその時代の事実ではないとされているわけです。
そして、その根拠として出されているのが「日本版中華思想」というものであり、「倭国中央」(彼等は「近畿」とする)を中心として周辺に「隼人」「蝦夷」が配置されるようになるのはそのような「思想」が顕在化した時点であり、それは「天武」の時代であるとされ、「天皇号使用」「律令制の開始」などが「天武朝」であるとされ、そのためこれらの「隼人朝献」というような記事についても「天武朝」を想定する意見が多数であるわけです。
また、「南九州」に多く残る「地下式横穴墓」(地下式土擴)についても、これが「隼人」の「墓」であるという考え方も以前はあったようですが、最近はそれも否定され、「隼人」と直接結びつくものではないとされることが多くなっていたようです。その理由として挙げられるもののひとつが上に見た『天武紀』以降が「隼人」の時間帯であるという考え方であり、「地下式横穴墓」は「考古学的」には、「五−六世紀」中心の遺構であり、どんなに下っても「七世紀半ば」であるとされていますから、歴史上の「時間帯」が食い違っていると考えられていたわけです。
しかし、(ハ)記事を見ると、「隼人」の有力者と思われる人物である「大隅直」に対して「忌寸」という「姓」が与えられています。ここで与えられた「忌寸」以前の姓である「直」は、そもそも「倭国中央」から見て「辺境」といえる地域の有力者に対して(半ば一方的に)「付与」される「姓」であったものであり、このような「姓」を与えることにより「倭国」は「辺境」を自らの「勢力下」に置くという政策を行っていたと思われます。彼はこの「直」を既に保有していたこととなるわけですが、それが『書紀』内に明記されていません。しかし、かなり以前から「直」を付与されていたものと見るべきですが、そうであれば、『斉明紀』の記事が一概に不審とは出来なくなると思われます。
この記事の信頼性が高いとすると、「地下式横穴墓」も「隼人」の墓とみることも可能となるでしょう。つまり、仮に「隼人」が「内属」した時期が「七世紀の半ば」とすると、そのことと「地下式横穴墓」の消滅とが「関連している」と考えられることとなります。つまり、「地域」の代表者が「直」という称号を授かり「倭国」の版図の一部を形成するようになるということは、即座に「倭国体制」に組み込まれた事を意味しますし、そうであれば、その時期以降は「地下式横穴墓」形式の「墓」は顧みられなくなり、「円墳」などに取って代わられることになるでしょう。それも「自ら選んだ」と言うより、「選ばされた」ものと思料され、「五世紀」代の「近畿」以東における「前方後円墳」の強制と同様の事象が「南九州」でも起こっていたと考えられる事となります。つまり「倭国」への編入、馴化というものが『斉明紀』代に起きたとした方が「考古学時状況」に合致するといえるでしょう。それは即座に『書紀』で「並列的」に書かれた「蝦夷」に関する記事についても「斉明紀」に遡上すると考えて矛盾がないことを意味するものでもあります。但し、それが「三十四年」なのかと言うことについては何ともいえないと思えます。
ところで、すでに述べたように「斉明元年」記事は「二年」のずれがあると見られ、「六五三年(是年)」というのがその真の年次と推察されますが、(ト)の『持統紀』の「筑紫大宰」からの「隼人」上送記事が仮に「三十五年」遡上するとした場合、それは「六五四年」の正月のこととなり、時系列として整合すると思えます。このことは「隼人」記事も「蝦夷」記事と同様かなり遡上した時期が真の時期であることを推察させるものです。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/08/25)