『書紀』には「孝徳天皇」の「葬儀」の記事が見あたりません。『書紀』によれば「孝徳天皇」は「冬十月癸卯朔壬子(十日)」に死去します。その後「葬儀」の記事がなく、一挙に「埋葬」記事になります(「十二月壬寅朔己酉(八日)、葬于大坂磯長陵。是日、皇太子、奉皇祖母尊、遷居倭河辺行宮。」)
つまり、「天皇」の死去という重大事案であるのに「葬儀」の記事が欠落しているとされます。そして、『天武紀』を見るとこちらには「葬儀記事」が複数見られます。
「天武天皇」の死亡記事は「朱鳥元年(六八六年)九月丙午(九日)天皇病遂不差。崩于正宮」と書かれています。
そして、翌「持統元年正月」に盛大な誄礼儀が行われています。また、同二年正月には「殯宮参り」の記述もあります。ところが、その後「持統二年(六八八年)冬十一月」になって更に「葬儀」と見られる記事があるのです。
「(持統)二年(六八八年)冬十一月乙卯朔戊午条」「皇太子率公卿百寮人等與諸蕃賓客。適殯宮而慟哭焉。於是。奉奠奏楯節舞。諸臣各擧己先祖等所仕状遞進誄焉。」
「(同月)己未条」「蝦夷百九十餘人負荷調賦而誄焉。」
「(同月)乙丑条」「布勢朝臣御主人。大伴宿禰御行。遞進而誄。直廣肆當麻眞人智徳奉誄皇祖等之騰極次第。禮也。古云日嗣也。畢葬于大内陵。」
この記事が「一周忌」等の「周年」行事ではないことは「殯宮」という用語が使用されていることで判ります。「殯」とは「死去」後「埋葬」されるまでの期間を示す用語ですから、ここではあくまでも「葬儀」であると理解できます。しかし、この時点で「天武」の死去後二年以上経過していますから、ここで「殯宮」が営まれていること自体が不審であると言えます。
「改新の詔」に引き続いて出された「薄葬令」では「殯」の期間についても実質的な禁止が指示されており(「凡王以下及至庶民不得營殯」とされる)、それを考えると、ここで「殯」の期間が「複数年」に亘るものとなったとは考えにくいものです。「天武」の「殯」の期間は歴代の天皇の中でも出色の長さであり、その点で不審であることは確かです。
また「陵墓」の造成が死後一年以上経ってから始められたように書かれていることも不審を増大させるものです。
「(持統)元年(六八七年)冬十月辛卯朔壬子条」「皇太子率公卿百寮人等。并諸國司。國造及百姓男女。始築大内陵。」
一般に「殯」の期間は「陵墓」の造成期間であると考えられており、葬儀が始められるとすぐに「陵墓」の造成が始められるはずですから、既に「矛盾」があると言えます。「薄葬令」で「殯」の期間を短縮したのは「陵墓」の小型化を図ったものですから、造成にはそれほど期間が必要なかったと思われ、その点で考えても「陵墓」の造成は速やかに行なわれたものと考えるべきでしょう。
また「大赦」記事が各々に見られるのも不審といえるでしょう。通常「大赦」は「天皇」の死と関連しているものであり、「殯宮」や「葬儀」とリンクしているものではありません。これらのことは「六八七年」の葬儀記事と「六八八年」の葬儀記事は「別」の時点の「別」の人物に対する記事であると考えるのが正しいと思われることとなります。その意味では「正木氏」の問題提起は正しかったと言えるでしょう。
これらの「矛盾」を解決する為に「吉野行幸」と同様この記事を「三十四年」過去に遡上させると、「六五四年」の「十月十六、十七日」が実際の「葬儀」の日付となるとされ、ちょうど「孝徳」の死亡記事と埋葬記事の中間に「はめ込まれる」ことになるというわけです。(移動の際には日付は「同一の干支」のある月が選ばれるとされます)
しかし、この「六八八年」の葬儀記事が「孝徳」のものとするには「陵墓」の名前が違うと言うことが問題となるでしょう。そこには「大内陵」とあり、それは「大坂磯長陵」とされる「孝徳」の「陵墓」とは異なっています。つまり、この記事は「孝徳」の葬儀のものではなく同世代の「倭国王」の記事からの転用ではないかと考えられるでしょう。それを証するのが「田中法麻呂」の派遣の年次に関する記事です。
「六八九年」に「新羅」から来倭した「弔使」である「金道那」達に向かって「土師連根麻呂」が「奉宣」する下りに「田中法麻呂」の派遣年次が「二年」とあります。これを『書紀』で見ると「田中法麻呂」は「六八七年」に派遣された記事があります。
「(六八七年)元年春正月丙寅朔…甲申。使直廣肆田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」
これは『書紀』では「持統称制元年」とするわけですが、実際には「朱鳥二年」とする「正木氏」の研究があります。(※)
そもそも「孝徳」の時代はまだ、「葬儀」と「即位」などの「吉凶」の行事が明確に分離していなかったと思われ、ある程度長い「服喪期間」をとった後に即位するなど、「吉凶」が分離されるのは「持統紀」以降(「飛鳥浄御原令」による)とする研究もあり(「田沼眞弓氏」「日・中喪葬儀礼の比較研究」 )、この「孝徳」の時代の「倭国王」の場合、死去後「殯」(もがり)が済んだ時点(「葬儀」の前)の時点で「即位」が行われ、その年を「新王元年」としたのではないでしょうか。(いわゆる「立年改元」)
そうすると「翌年」は「新王二年」と考えられるわけであり、『書紀』の記事では「天武」の死去した翌年「田中法麻呂」の発遣記事があり、この「発遣」を指して「詔」の中で「二年」と言っているわけですから、これは「六五三年」の「発遣」とされていたのが本来ではなかったかと推察されるものです。
(すでに述べたようにこのように「立年」改元が行われているのは「孝徳」と「文武」に共通しています)
「朱鳥」の改元は「天武」死去以前ですが、それは「天武」の死去とは関係がないというのが『書紀』の立場のようです。いずれにしても年初から『書紀』の表記として「新元号」となっています。
ところでこの「根麻呂」が奉宣した「詔」では不審なことが書かれています。そこでは「昔在難波治天下天皇」の死去の時は「えいさん」「金春秋」が「奉勅」したとされているのです。
「…在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。■金春秋奉勅。…」
しかしここでいう「在昔難波宮治天下天皇」が「孝徳」であれば、彼は「六五四年十月」の死去とされているのに対して、「金春秋」はそれに先立つ同年四月には「新羅国王」に即位しており既に官人ではなくなっています。このことから「巨勢稻持」が「喪使」として赴いた対象の人物としての「倭国王」は「孝徳」ではないということとなるでしょう。
「金春秋」はそれ以前に「大阿さん」であったものが短期間に「えいさん」へと昇格しており、この官位の変遷から考えると、「難波宮治天下天皇」というのが「孝徳」の時代の「倭国王」以前の(十数年以前か)の「倭国王」を指すものと推察され、「阿毎多利思北孤」の太子である「利歌彌多仏利」が該当するという可能性があると思われます。しかしそう考えると『書紀』とは「天皇」の「代」が一つずれることとなります。(つまり「利歌彌多仏利」の朝廷が「難波朝」と呼称されていたこととなります)
このことから「田中法麻呂」が「喪使」として赴いたのはその「利歌彌多仏利」の「次代」の「倭国王」の死に際してのものであったらしいことが推定されることとなり、それは「六五〇年代」という年代が考えられることから、「白雉改元」を行って即位したと『新唐書』に書かれた「倭国王」(『新唐書』ではこれが「孝徳」とされる)が該当する人物であると考えられることとなるでしょう。
これらのことは『書紀』の記事において「年次」の移動があるという可能性が極めて高いことを示すと思われることとなりますが、それは「三十四年」ではないということにもなります。
この「天武」の「六八八年記事」はその対象となる人物が実際には「孝徳」ではなく当時の「倭国王」であったと考えられますが、『新唐書』ではこの時の「倭国王」は「白雉改元」後「未幾(幾ばくもなく)」死去したとされています。この「未幾」という表現は『新唐書』や他の史書においても「一年以内」を指す場合に使用されている例がほとんどであり、そのことから「白雉元年」中に死去したことが推定され、「二年」とはその「白雉」の「二年」である可能性が高いと思料されます。
「九州年号」の「白雉」はその元年が「六五二年」とされていますから倭国王の死去も同年の「六五二年」であったものと思われることとなります。その死去を知らせる「喪使」はその翌年発遣されたとすると「遡上」の年数としては「六八七」―「六五三」つまり「三十五年」という数字が浮上することとなります。
もっとも、「殯宮記事」のないのは特に「孝徳」だけではないという指摘もあります。確かに多くの「天皇」の死去の際に必ず「殯」記事があるというわけではありません。しかし、「孝徳」には「死去」と「埋葬」に関する記事はあり、「殯宮」記事だけが欠落しています。このようなバランスを欠いた記事は「孝徳」だけです。つまり他の「殯宮」がない記事は「葬儀記事」や「埋葬記事」もない場合がほとんどであり、その意味では『孝徳紀』とは異質であるわけです。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/12/27)