ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の「三十四年遡上」:「正木氏」による「三十四年遡上」について:

蝦夷の人数について


 正木氏の研究の中に「蝦夷」記事の移動というものがあります。
以下『持統紀』の「蝦夷」関連記事を挙げます。

「持統二年(六八八)冬十一月己未(五日)条」「蝦夷百九十余人、負荷調賦而誄焉」
「同年十二月乙酉朔丙申(十八日)条」「饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下。仍授冠位、賜物各有差。」
「持統三年(六八九)一月丙辰(三日)条」「詔曰…務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折、請剔鬢髪為沙門。詔曰麻呂等少而閑雅寡欲。遂至於此蔬食持戒。可随所請出家修道。庚申宴公卿賜袍袴。」
「同年一月壬戌(九日)条」「詔出雲国司、上送遭値風浪蕃人。是日賜越蝦夷沙門道信、仏像一躯、灌頂幡・鍾鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具。」

 一方、「斉明紀」の方は、「斉明元年」に以下の記事があります。

「斉明元年(六五五)秋七月己巳朔己卯(十一日)条」「於難波朝、饗北(北は越)蝦夷九十九人、東(東は陸奥)蝦夷九十五人。并設百済調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。…
是歳、高麗・百済・新羅、並遣使進調。百済大使西部達率余宜受、副使東部恩率調信仁、凡一百余人。蝦夷・隼人、率衆内属。詣闕朝献。」

 正木氏はこれらの記事中の「蝦夷」の人数に着目し、それが細かいところまで整合しているとして同一記事であるという論証としています。

「… 一連の蝦夷の記事を比べれば、注目すべき点がある。それは朝貢する蝦夷の数だ。持統記事を三十四年遡上させて、時系列に並べてみよう。
(1) 持統二年(六八八)冬十一月→白雉五年十一月調賦而誄 一九〇余。
(2) 持統二年(〃)十二月十二日  →〃十二月饗授冠 蝦夷男女 二一三
(3) 持統三年(六八九)一月三日→斉明元年一月
  城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折が出家、越蝦夷沙門道信に恩賜 四
(4) 斉明元年(六五五)七月、饗・越九九+陸奥九五=一九四
 授冠・柵養九+津刈六=十五 総計 二〇九。

 先ず(1)の蝦夷百九十余と(4)の越九九+陸奥九五の計一九四がピッタリあう。これに(4)の柵養九+津刈六と(3)に登場する四人の蝦夷を足すと、何と(2)の二一三になるではないか。
 もっと厳密に言うと、(1)の白雉五年十一月には越・陸奥の蝦夷百九十五人が誄をおこない、すぐ後に柵養十二+津刈六、計十八人が加わり二一三人となった。これが(2)白雉五年十二月の記事だ。そこから(3)の柵養蝦夷三人と越蝦夷一人計四人が抜け、二〇九人となった。これが(4)の記事なのだ。何と驚くべき正確さではないか。…」(正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について」『古田史学会報』77号2006年12月8日)

 これによれば、まず『持統紀』の蝦夷の人数(「百九十余」人)と「斉明紀」の「越の蝦夷」「九十九」人+「陸奥の蝦夷」「九十五」人、つまり合計で「一九四」人が整合しているとされます。ここで正木氏はまず『斉明紀』における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」を上の「一九四人」とは「別」と見なして加算し合計「二〇九人」としています。さらに『持統紀』記事においてこの「二〇九人」に更に「城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折」という部分と「越蝦夷沙門道信に恩賜」という記事から「四人分」を弾き出して(「脂利の古男」「麻呂」「鉄折」という「三人」であると推定しそれに「道信」を加える)、その結果「二〇九人」にさらにこの「四人」を足して「二一三」人という数字を算出している訳です。
 しかし、問題となるのはこの加算された人数でしょう。文脈上『斉明紀』における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」は即座に「一九四人」とは「別」とは即断できません。というより「饗」の場で「冠位」が与えられたとすると彼らはこの「一九四人」に含まれていた可能性の方が強いでしょう。これら集まった(集められた)「蝦夷」の人達の中心的のメンバーを選抜して「冠位」を授与したと考えるのが相当と思われます。つまりこの『斉明紀』の「蝦夷」の人数はこの「一九四人」が最大であったと考えるべきでしょう。

 また『持統紀』に出てくる「務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という部分は、「三人」と考えるのは明らかに不自然と思われます。ここは「麻呂」と「鉄折」の「二人」ではないでしょうか。
 この文には冒頭に「務大肆」という冠位が書かれており、これが明らかに最初に書かれている人物である「城養蝦夷脂利古」にかかると思われますから、「城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という文章は単に「沙門」になる人物を並列表記しているのではなく、あくまでも「冠位」を授与されている人物としての「城養蝦夷脂利古」の子供達についての記事であると考えざるを得ないものです。それを示すように「詔」の中でも「麻呂等」と表現されており、「脂利」から始まる文章でありながら彼の名前は書かれていません。これは「脂利古男」の部分は通常の解釈通り「脂利古」の「息子」という意味しかないことを示すものと思われます。(冠位を授与されていることから、彼については名前を和人らしく改名したということも考えられます)
 また特に「父親」の名が書かれているのは彼が「務大肆」という冠位を持っているからであると思われます。
 この「務大肆」という冠位はかなり高いものであり、誰でも授けられるわけではありません。たとえば「那須値韋提」の「碑文」では「追大壱」を授けられたことを「栄誉」としていることが判ります。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜…」

 この「碑文」解釈は複数ありますが、いずれにしても「国造」や「評督」という職掌を与えられながら、冠位としては「追大壹」程度しか授与されていないこととなります。
 このように「地方」の官にとって(初めての)冠位授与ではせいぜい「追冠位」までが極限であったと見られますが、「務大肆」を与えられたとすると「異例」のこととなるでしょう。
 「その身」を「売って」「薩夜麻」達の旅費を稼いだとされる「大伴部博麻」(これもまた異論がありますが)については、特に厚く褒賞されていますが、その彼には「務大肆」が授与されています。そのように特別の功労でもなければ授与されない性質の冠位であったと思われます。
 つまり「脂利古」の冠位が「務大肆」であるのは「特進」であると思われ、彼の存在が「対蝦夷」戦略上重要であるという意識があった事を示すと思われます。彼の息子達が「沙門」となるという記事において、彼の名前が(特に)出される意義もそこにあったと思われるものです。つまり「麻呂」と「鉄折」は単なる一介の「蝦夷」ではなく「務大肆」を授けられた「脂利古」の息子であったものであり、これによって「蝦夷」の「朝廷」への「服従」が「脂利古」段階だけではなく、それが「息子」達に継承されることとなったことが重要な意味を持っていると考えられたのではないでしょうか。そう考えると「脂利古男麻呂與鉄折」の部分を「三名」が表記されていると考えるのは少なくとも「不自然」であると言えると思われます。

 ただし、彼が「特進」であるというのは「斉明紀」記事に「冠位二階」と書いてあることとは一見符合しているように見えます。つまり『斉明紀』段階で「務大肆」に「二階」特進したとすると「追大壱」からと言うこととなりますから、当初冠位としては不自然ではないこととなりそうですが、しかし、これも「蝦夷」に対しては「戦略的理由」により常に「特進」で臨んだとも考えられますから根拠とはなりにくいものです。
 さらに、『持統紀』記事では「越蝦夷」である「沙門道信」に対して「仏像」などが下賜されていますから、この時の「蝦夷百九十余人」ないし「饗蝦夷男女二百一十三人」という中に彼がいたことは確実であり、それはこの時の「蝦夷」というものが「越」と「陸奥」の混成であったことが窺えるものですから、その点において『斉明紀』とは重なるもといえますが、そもそも基本的に「倭国王権」が始めに「城柵」を置いたのは「越」の地であり、この地域がまず「馴化」の対象となったと見られます。その後「陸奥」についても「城柵」が設けられるなどの政策が遂行されたものであり、そうであれば「倭国王」の死去という事態に対しての「弔意」を示す者達について、「越」の「蝦夷」がその中にいなかったとすると、逆に不自然とも言えるものと思われます。
 これらのことから「蝦夷」の人数が高い精度で一致するとはいえないこととなるものの、ただし、概数的には整合しているということもまた確かですから、これらの記事に関連がないともいえないものと思われます。問題は「三十四年」であったかどうかでしょう。

 これらの「蝦夷」の「朝貢」と「誄」を奏するという葬儀記事は明らかに「前項」で述べた「倭国王」に関するものと思われ、その考察では「倭国王」の死去年次について「六五二年」と見て、さらにその葬儀記事は「翌年」である「六五三年」ではなかったかと推察したわけです。
 そう考えると、「六八八年記事」が「三十五年」遡上するとして「蝦夷」が「誄」をしているとすると「六五三年」の葬儀(殯)記事として整合するわけですが、そこでは「調賦而誄」とされ、あたかも通常の「調」を運び来ったところたまたま倭国王」の死に遭遇し、その「葬儀」に際し「誄」を奉ったという風にも理解できます。つまりここに「蝦夷」がいるのは偶然であったというわけです。それに対し「斉明元年記事」の場合は「調」を主としてきたものではなく当初から「葬儀」に参加するためのものであったとみるべきであり、年次としてはずれがあるとみられます。つまりこの記の内容から判断して「六八八年記事」にわずかに遅れる記事であり、翌年あるいはその翌年付近の記事ではなかったかと見られ、若干『斉明紀』記事にも年次移動があるという可能性もあります。
 以上より「蝦夷」の人数の観点からも「三十五年ずれ」が正しいのではないかと思われることとなります。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/08/25)