「三野王」について見てみます。この人物は筑紫大宰である「栗隈王」の子息として登場します。
「(六七二年)元年…
六月辛酉朔…
丙戌…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」
(六八一年)十年
三月庚午朔癸酉葬阿倍夫人。
丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。『三野王。』大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」
「(六八二年)十一年…
三月甲午朔。命『小紫三野王。』及宮内官大夫等。遣于新城令見其地形。仍將都矣。」
「(六八四年)十三年…
二月癸丑朔…
庚辰。遣淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占應都之地。是日。遣『三野王。』小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟。」
「(同年)閏四月壬午朔。…
壬辰。『三野王』等進信濃國之圖。」
「(六九四年)八年…
九月壬午朔。日有蝕之。…
癸卯。以『淨廣肆三野王』拜筑紫大宰率。」
(六九九年)三年…
十二月…
甲申。令大宰府修三野。稻積二城。」
「(養老)三年(七一九年)春正月庚寅朔。…
壬寅。授從四位上路眞人大人。巨勢朝臣邑治。石川朝臣難波麻呂。大伴宿祢旅人。多治比眞人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂。從四位下多治比眞人縣守並正四位下。從四位下阿倍朝臣首名。石川朝臣石足。藤原朝臣房前並從四位上。正五位下小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。大伴宿祢山守。藤原朝臣馬養並正五位上。從五位上坂合部宿祢大分。阿倍朝臣安麻呂並正五位下。正六位上三野眞人三嶋。吉智首。角兄麻呂。正六位下大野朝臣東人。小野朝臣老。酒部連相武。從六位上板持連内麻呂。從六位下石上朝臣堅魚。佐伯宿祢馬養。大宅朝臣小國。笠朝臣御室並從五位下。」
これ以降「三野」という表記そのものが(名前として以外は)現れなくなります。それに対し「音」は同じである人物として「美濃王」がいます。彼は「壬申の乱」時点で「美濃国」の「王」として現れます。
「(六七二年)元年…
六月辛酉朔壬午…即日。到菟田吾城。大伴連馬來田。黄書造大伴。從吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村。有獵者廿餘人。大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。…」
「(六七三年)二年…
十二月壬午朔…
戊戌。以小紫美濃王。小錦下紀臣訶多麻呂。拜造高市大寺司。今大官大寺是。時知事福林僧由老辭知事。然不聽焉。」
「(六七五年)四年…
夏四月甲戌朔…
癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」
「(持統前紀)高天原廣野姫天皇。少名野讃良皇女。天命開別天皇第二女也。母曰遠智娘。更名美濃津子娘也。天皇深沈有大度。天豐財重日足姫天皇三年。適天渟中原瀛眞人天皇。爲妃。雖帝王女。而好禮節儉有母儀徳。天命開別天皇元年。生草壁皇子尊於大津宮。十年十月。從沙門天渟中原瀛眞人天皇。入於吉野。避朝猜忌。語在天命開別天皇紀。
天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月。從天渟中原瀛眞人天皇。避難東國。鞠旅會衆。遂與定謀。廼分命敢死者數萬、置諸要害之地。」
秋七月。美濃軍將等。與大倭桀豪。共誅大友皇子。傳首詣不破宮。
しかしこれ以降「美濃王」は全く姿を現しません。
ところでこの両者とは別に「弥努王」という人物が『続日本紀』に現れます。
「(七〇一年)大寳元年…
十一月…
丙子。始任造大幣司。以正五位下弥努王。從五位下引田朝臣爾閇爲長官。」
「(七〇八年)和銅元年…
三月…
丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿」
さらに「美弩王」という表記も現れますがこれも「弥努王」と同一人物と思われます。(ここで表記に使用されている「弩」は大型の弓を示し、戦争で使用する兵器ですから彼に軍事力があることを強く示唆する名前となっています)
「(七〇八年)和銅元年…
五月…
辛酉。從四位下美弩王卒。」
また「美努王」について「栗隈王」との関係を記した記事もあります。
「(天平)十八年(七四六年)春正月癸丑朔。…
己夘。正三位牟漏女王薨。贈從二位栗隈王之孫。從四位下美努王之女也。」
「天平寳字元年(七五六年)春正月庚戌朔。…
乙夘。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣從四位上紀朝臣飯麻呂。從五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫。從四位下美努王之子也。」
これらの記事からは「橘諸兄」について「美努王」の子供であり「栗隈王」の孫であるとしていますから、「美努王」は「三野王」であることとなります。また「木簡」では「美濃」は「三野」と表記されるのが普通ですから、「美濃王」は「三野王」と同一人物という可能性は高いと思料します。上によれば「六八二年」と「六七三年」というようなほぼ同時代に「美濃王」と「三野王」が「官位」も共に「小紫」というように同じであり、これらのことから「美濃王」は「三野王」であり、「栗隈王」の二人の子供のうちの一人であると認められます。
また「栗隈王」は「大宰率」でしたが、「三野王」も同様に「大宰率」に任命されており、親子であった場合不自然ではありません。すでに「栗隈王」については「筑紫」に土着した勢力と推定しましたから、この時点でいわば「筑紫」の「領有権」を父から相続したということなのかもしれません。
また彼は「小紫」という位階として書かれていますが、この「小紫」は元々上から数えて六番目でしたが、「浄広肆」という位階も従五位下付近ですからほぼ同等と思われるものであり、その意味でも連続性があります。
これらのことから「三野王」は父である「栗隈王」の護衛として「近江朝廷」からの軍派遣を拒否した後、(「栗隈王」から)「大海人」への加勢を命じられたとみられ、そうであれば「大海人」達が移動途中の「宇田」で追いついたとして不思議ではありません。(山陽道の交通に使用する「符」は筑紫(大宰府)で保有していたはずですからこれを「父王」から授けられたとすれば高速で移動は可能です)
そもそもその名称から考えても彼は元々「三野」(美濃)に拠点を持っていたと見るべきこととなるでしょう。
(この項の作成日 2017/08/24、最終更新 2017/10/14)