ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の「三十四年遡上」:「正木氏」による「三十四年遡上」について:

僧尼献上記事について


 さらに「朱鳥元年」(六八六年)閏十二月に、「筑紫」から僧尼が献上された記事があります。

「朱鳥元年(六八六年)閏十二月 筑紫太宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人。」

 この記事の直前には、以下のようにあります。

「十二月丁卯朔乙酉、奉為天渟中原瀛真人天皇(天武)、設無遮大会於五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」

 つまり、記事の流れとしては「天武天皇」の「喪」に関しての出来事のように書かれているのですが、問題は「高句麗」や「百済」はすでに滅亡している、ということです。ここに書かれた人たちはどこからやって来たのかという疑問が発生します。
 従来は「高麗・百済の『遺民』と新羅からの帰化人を合わせたもの」として解釈しているようです。しかし、高麗は二十年、百済も二十六年も前に滅亡しているのです。こんな昔の人が「遺民」として登場するというのは(正木氏もいうように)非常に考えにくいことです。
 正木氏はこれらの記事が「三十四年遡上」するものとされ、「難波遷都」祈念の僧尼記事に重なるものとされています。

「孝徳八年(六五二年)白雉三年 冬十二月晦、請天下僧尼於内裏、設斎大捨燃燈。」

 さらに、この記事の前年の「十二月晦日」には、難波宮遷都について祈念する式典記事があります。

「孝徳七年(六五一年)冬十二月晦、於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余燈於朝庭内、使読安宅・土側等経。於是、天皇従於大郡、遷居新宮。号曰難波長柄豊碕宮。」

 ここに先ほどの「朱鳥元年記事」を移動させてみると、白雉二年・三年の難波遷都祈念の僧尼記事にスムースに接続することになるとされ、また、この年次であれば、まだ「高句麗」も「百済」も滅亡前ですから僧尼が献上されてなんの疑問もないというわけです。このことは確かに「年次移動」が疑われるものの、この記事からはそれが「厳密」に「三十四年」かどうかについては不十分とは言えそうです。

 例えば、前項等で述べたようにこれが「三十五年」の遡上であるとすると、「朱鳥元年」は「六五一年」となりますがそれは「孝徳七年」記事と同年となります。ただし、「六五一年」は「閏月」が入る年ではあるものの「十二月」ではありません。しかし「年末」に、半島諸国から「僧尼」が献上され、その月に「一切経」の読経が行われたとして、不自然ではないと思われます。さらにその一年後に「天下僧尼」に「設斎大捨燃燈」することを請うたとするわけですが、これもまた何ら矛盾は発生せず、この「天下僧尼」の中に「半島諸国」の僧尼が入っていて問題ないと思われるわけです。(この「齋會」は「倭国王」の死去に伴うものではなかったでしょうか。)その意味で年次遡上の可能性は確かにあるものの「三十四年」という年数に絶対性はないものと推量します。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/08/25)