ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の「三十四年遡上」:「正木氏」による「三十四年遡上」について:

「難波京」造営記事について


 最も年次移動が疑われるのは「難波宮」造営についてです。なぜなら『書紀』には実際に「七世紀半ば」という時点で「難波京」が登場するからです。つまり、『書紀』上も「七世紀半ば」には「難波」に京域が作られていたらしいこと記されているわけですが、それにも関わらずずっと後代である『天武紀』に唐突に「難波」への「副都」宣言が出されるわけです。その不自然さを考えると、年次移動を疑うのは自然と言えます。

 『書紀』では「天武八年」、「十一年」から「十四年」等々、「造都」・「遷都」を示す記事が続きます。これらの記事はいずれも「難波」に関するものですが、これらの記事は明らかに「遺跡」としての「前期難波宮」に整合するものであり、推定される建設の時系列に合致することとなります。

@「天武八年(六七九年)十一月(略)是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。」

A「天武十一年(六八二年)三月甲午朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(十六日)、新城に幸す。」

B「天武十二年(六八三年)十二月甲寅朔(略)庚午(十七日)(略)又詔曰「凡都城・宮室非一處。必造兩・參。故先欲都難波。是以百寮者。各徃之、請家地。

C「天武十三年(六八四年)二月癸丑朔(略)庚辰(二十八日)、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣はして、都つくるべき(應都)地を視占しめたまふ。
 「三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇京師に巡行きたまひて、宮室之地を定めたまふ。」

 この時系列では@で「関塞」を「難波」の周囲に設け、「難波」防衛線を構築し、「羅城」を築いた後、その「羅城」の中を確認し、そこに「都」(当然条坊を伴うと思われる)を作ろうとしたものと推定されます。
 そしてAでは「新城」(これは上の「羅城」と思われる)の中を確認し、どこに「宮」(宮殿)を立てるべきか定めたものと思われます。
さらに、Bでは「難波副都建設の宣言」を行っています。当然そのためには「宮」の位置などがすでに決定されていたことが窺えます。これは従来云われているような「難波宮」の「修造」などを指す内容ではないことは確かです。そのようなものでないことは「先入観」なしに読めばわかるはずです。これは明確に「難波」に「新た」に「副都」を造るから、そのための土地を工面するように、という指示(「詔」)です。それ以外の解釈は不可能です。逆に言うとこれ以前に「難波」には「都」と呼べるものはなかったということとなります。

 これら一連の「難波副都」関連記事に対応する記事は『孝徳紀』の次のものです。

D「大化元年(六四五年)冬十二月の乙未の朔癸卯(九日)に、天皇都を難波長柄豊碕に遷す。」

E「白雉元年(六五〇年」)「冬十月に、宮の地に入れむが為に、所丘墓を壊られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。」

 Dでは「難波長柄豊碕」を「宮」としたとされています。しかしこの年次が『書紀』の示すとおり「六四五年」とすると、「難波長柄豊碕」というのが「難波副都」を示す語であるとした場合、Eよりも後でなければ整合しないこととなります。少なくともその後出てくる「白雉元年」記事とも整合していません。このことは「難波長柄豊碕」という「宮」が「難波副都」と「関係のないもの」という可能性を示唆します。
 可能性としては古賀氏が指摘したように「難波宮」にほど近いところにあった「近畿王権」の「宮」ではなかったかということが考えられるでしょう。そのようなものが「倭国王」の至近に存在していたのは「監視」のためではなかったかと考えられます。その意味では「近畿王権」は警戒すべき相手と考えられていたものでしょう。

 実際の「難波副都」はその後「白雉元年」付近に完成したものであり、まず「宮」ができ「倭国王」が移動したことを以て「遷都」と称していると思われます。その意味では「前項」等で考察したように『書紀』記事の『孝徳紀』記事には「二年」ほどのずれがあるように思えます。つまり「六四八年付近」で「宮地」が定められ、そのため「墳墓」などの移転を余儀なくされた人々に対して補償をしたものと思われます。この記事がEに関係していると思われます。この記事が「三十五年遡上」であるとすると、「六四九年」のこととなりますが、「白雉元年」記事がそれと関連があるとすると、「整地」が始まり、その結果それまで存在していた「墳墓」などが破壊されるということがあり、その所有者に対して「翌年」補償が行われたとすると整合的です。
 
 これらの記事を「難波朝」の改修工事というような理解が一般的なようですが、それは「詭弁」としか言いようがなく、それまで「難波」を「副都」とはしていなかったし、「宮殿」もなかったことは明白であると思われます。
 ここにおいても年次移動はあると思われるものの移動年数として三十四年なのかどうかはやや不明であり、前述したように三十五年という年数もまた蓋然性があることとなります。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/12/27)