ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:古代の官道について:

その施工主体と時期


 「山陽道」を初めとする各「古代官道」はその「規格」、その「延長距離」など、どこを取ってみても高度に集権的な構造物といえるものですが、そのようなものを造る事や、これを企図して実現させる事が出来るのは、当然「統一権力者」的人物と想定しなければならず、その意味でも「倭の五王」の時代の各王、特に「武」及び、「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」などの「倭国王」がそれに該当すると考えられるでしょう。
 これら「官道」は、その「延長」もかなりの距離になると思われますから、一時に完成されたはずがなく、その全体の完成はかなり遅い時期を想定すべきですが、「段階的」な完成としては第一に「倭の五王」の時代の各王(これは「高規格」ではなかったと思われますが)、更にその後「阿毎多利思北孤」の「六世紀末」(これが遣隋使以前であり、六世紀後半に山陽道など筑紫周辺と筑紫−近畿(これは難波京か)の連絡道路として造られたもの)、続いて「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」(遣隋使以降であり、東山道整備に関連するか)そして「七世紀半ば」の「伊勢王」更に「七世紀末」の「持統」というように、各「倭国王」の時代に「官道」がそれぞれ延伸され、それが即座に「統治強化」に結びついたものと思料されます。そして、その「傍証」とも言うべきものが「ヤマトタケル」神話です。

 日本武尊(倭建命)は『書紀』にも『古事記』にも出てきますが、この「二書」で「東征」のルートが異なっているのが分かります。
 『書紀』の中で「日本武尊」は「碓氷峠」を通っており、そこで「あづまはや」と詠嘆したとされています。これは後の「東山道」ルートです。これに対し『古事記』の中では「倭建命」は「足柄山」で「あづまはや」と歌っています。これは「東海道」のルートです。
 このようにその「東国経略」に使用した経路に「違い」があるのは、この「二書」の「性格」の違いでもありますが、また「東山道」と「東海道」の完成時期の違いでもあると思われます。
 『書紀』の原型は「伊勢王」段階で造られたものと考えられ、彼は「東山道」を整備し、その最新の「官道」に則って「東方統治」をおこなっていたものであり、これが『書紀』の「日本武尊」の東征ルートに反映していると考えられます。
 それに対し「利歌彌多仏利」が「東国経営」のために送り込んだ「親新羅勢力」は、当時未開通であった「東海道」を完成させ、それを利用して「あづま」の国を統治しようとしたと解されます。
 『古事記』は後述するように「天智」即位の大義名分確保の意味合いで書かれたとも考えられますから、「天智」の主たる支援勢力であった「あづま」(特に武蔵)の勢力の主要ルートであった「東海道」が「倭建命」の東征ルートとして書かれているものと思われ、この「二書」における「ルート」の差異は、それらの事情を反映した結果と考えられます。

 一部にはこの「官道」が「天武」により作られたと言う事を考える向きもあるようですが、『書紀』の記載からは「壬申の乱」の時にこの「官道」が既に存在していると推察されるものであり、そうであれば「天武」が造らせたものでないことは明白と思われます。

「(天武)元年(六七二年)六月辛酉朔丙戌条」「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神。是時。益人益到之奏曰。所置關者非山部王。石川王。是大津皇子也。便随益人參來矣。大分君惠尺。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山邊君安摩呂。小墾田猪手。泥部胝枳。大分君稚臣。根連金身。漆部友背之輩從之。天皇大喜。將及郡家。男依乘騨來奏曰。發美濃師三千人得塞不破道。於是天皇美雄依之務。既到郡家。先遣高市皇子於不破。令監軍事。遣山背部小田。安斗連阿加布。發東海軍。又遣稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手。發東山軍。」

 ここでは「東山道」「東海道」を経由した人員の移動を行う事を想定していると考えられ、「不破」で「道」を塞げと指示しています。この「道」は「東海道」と「東山道」の分岐点付近であり、ここを止めることで「東国」からの援軍を阻止しようとしていると考えられます。この事は「東海道」や「東山道」が大量・高速に人員と物資が移動可能であったことを暗に示していると考えられ、これら「官道」がこの時点で既に「高規格道路」であったことを示唆するものです。
 「東海道」や「東山道」から「徴発」された「兵士」が「招集」されたことも書かれていますが、それもこのような整備された「高規格道路」があったからこそであると考えられるものです。
 更に「倭京」の「留守官」とされる「高坂王」に「駅鈴」を要求しています。この「駅鈴」も「官道」を移動する際に各「駅」に繋がれている「馬」の使用に関するものであり、これが存在していると言うことは「駅路」(官道)が既に実用されていたことを示すものです。
 このように「官道」は「壬申の乱」以前から存在していたと考えるべき事を意味するものですから、「天武」の手になるものでないのは明白です。

 では「天智」が造ったのかというとそれもまた違うと思われるものです。それは「天智」の「治世期間」がこれらを構築するには「期間」が短すぎると考えられるからです。このような大規模な構造物が数年で構築できるようなものではないものは明らかであり、完成が彼の時代であったとしても、それが創建されたのはかなり遡上する時代のこととなるでしょう。
 また(後述するように)、彼は「百済を救う役」に出征した「倭国王」の隙を狙って「革命」(クーデター)を起こしたものであり、その際の戦いにも「官道」が利用されているものと思料されますから、既にその時点(六六〇年時点)で使用可能な状態となっていたと思われます。このことは完成はそれ以前を想定すべきことを意味するものです。
 そもそも「百済」をめぐる戦いで多大な人員と経費を投入し、しかもそれを相当程度失ったわけですから彼の時代にこのような「大規模」なものを構築することができるような人的、経済的余裕などなかったと考えるが妥当ではないでしょうか。

 ではそれ以前のいつかということですが、「奈良盆地」地域で最初に作られた「古代官道」がいわゆる「太子道」と呼ばれる「斜め通り」であることが判明しています。この道は、それ以前に存在した「非直線道路」(自然発生的なものも含め)の中に現れた「初めて」の「直線道路」であり、この「道路」の敷設された時期の「王権」はそれ以前とはその「質」が異なることが分かります。それは「太子道」という名称にも現れており、「聖徳太子」と関連づけて考えられているという事に中に半ば回答が隠されているといえます。つまり「阿毎多利思北孤」ないしは彼の「太子」である「利歌彌多仏利」の時代に整備された「直線道路」なのではないでしょうか。
 この「太子道」はその後の「東西南北」に敷設された「正方位道路」により寸断されることとなっていることから、「奈良盆地」に「方格地割」が敷設されることとなった時点以前のものであることが推定されますが、そのような「方格地割」が「奈良盆地」に造られるのは「藤原京」時代の事と考えるのは時期的に遅過ぎるといえるでしょう。なぜなら『書紀』の「壬申の乱」には「上ツ道」などが舞台として登場しますから、そのことと時期的に齟齬してしまいます。
 これについては、近年の調査により「前期難波宮」の周辺など「上町台地」から「河内平野」にはかなり以前から「条坊制」が施行されていた形跡が確認され、そうであれば「太子道」の寸断時期と「壬申の乱」などとの「齟齬」が解消することを示します。つまり、「藤原宮」を遥かに遡上する段階で「難波宮」の条坊などと同一規格で「直交道路」が造られたものであり、「太子道」などがそれにより「上書き」されるという事態となったらしいことが推察されるわけです。
 この「難波大道」は「官道」として最初に手がけられたものであり、それに引き続き「山陽道」及び「丹比道」「大津道」などが造られたものと推量します。それ以外の「道路」は「阿毎多利思北孤」以降の産物と考えられます。特に彼の時代に路線強化が成されたものとみられ、それは「官道」が統治強化に結びつく具体的施策を実施したことと関係していると考えられます。
 彼は「遣隋使」を派遣し、「隋」の各種制度と技術を積極的に導入したわけですが、そのような中に「道路」に関するものもあったものと思われるのです。
 「隋」には当時すでに各地に「高規格道路」が造られており、「大興城」の「宮殿」前には「幅」が百メートルもあるような広い道路が存在していました。「遣隋使」はこれらを目の当たりにしたものであり、帰国した際にはそれを子細に報告したとみるべきでしょう。(「来倭」した「裴世清」からもそのような話を聞いた可能性があります。)
 「古代官道」はまず「難波大道」が造られ、それに続き「肥前」と「肥後」を分ける「西海道」が造られ、さらに「畿内」との連絡の良さを考えて「筑紫」に「太宰府」を設け、そこから「畿内」に延びる「山陽道」が造られたと考えられる訳ですが、「筑紫」では「外国使者」の迎賓館である「鴻廬館」と「筑紫宮殿」を結ぶものを始め、各所に「網目状」に建設されていたのが確認されています。
 この「官道」は「筑紫都城」の「南端」と「北端」に二本とりつくように伸びているのが確認されており、しかも「南端」側の「官道」は「鴻廬館」にまっすぐつながっており、「外国使者」などが「宮殿」に来る際に「都城」の南端から「都城中心軸」である「朱雀大路」を北上していくコースをとることとなるように造られており、「使者」に対してある種の「威圧」効果があったものと推定されます。
 
 旧都である「肥後」との連絡のためのものなど「太宰府」から「六本」の官道が伸びているのが確認されていますが、これは「近畿」から放射状に伸びる「官道」(東山道など)が「六本」であることと共通しており、これを「太宰府」が「模倣」したものという説もありますが、当然その逆であり、その「官道」の性格から考えて、当初「肥後」そして太宰府」を通じて各方面に伸びる「軍事的計画道路」であったものと考えられます。それが「近畿」に到達した時点以降は「東国」などの「統治」のために「二次的」に延伸されたものと考えられ、それが実現するのが「難波朝廷」の時代のことと考えるべきものと推察します。
 この推論を裏書きするものが、『延喜式』(兵部省式諸国伝馬条)による「都」(平安京)から放射状に伸びる七幹線以外にも「官道」が存在していたことが明らかになってきていることです。その多くは地方と地方を結ぶもので「駅路」のように「都」(平安京)と地方を結ぶものではなかったものです。しかし「平安時代」に入り、地方と地方を結ぶ官道は整備(維持・管理)が行われなくなり、廃止されるようになりました。しかし、「西海道」にはその整理時点ですでに他の地方とは異なり、九州を南北に結ぶ二つの道路とそれらを東西に結ぶ支線というようないわば「九州島」を網状に結ぶ交通路ができていたものです。 つまり「全国的」に「官道」整備を遥かに遡上する時期に「九州島」の内部では「道路網」が造られていたこととならざるを得ません。このような「官道」の整備がいつ行われたか不明ですが、「平安京」以前から存在していたことわけですから、それ以前の「平城京」段階かというとそうではないと思われます。なぜなら、「平城京」から放射状に伸びる官道などはみられないからであり、またそれはそれ以前の都においても同様であって、「藤原京」「難波京」「近江京」など『書紀』に記された各種の「都」のどれからも「放射状」伸びる官道などは確認できていません。それに対し「太宰府」を中心として伸びる「幹線」がそれらのキとは無関係に存在していたことは確かであるわけですから、「都」から延びる幹線である「街道」の姿を模したものという理解には全く根拠がないこととなります。
 そもそもそのような考え方はなぜ「九州」にそのようなものがあるかについて整合的に説明できていません。従来の観点に立てばもし「九州」が重要であるとしても結局は一地方であるはずであり、それほど道路のネットワークを広げる必要性がないことは明らかです。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2015/07/22)