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「狭山池」との関連


 これら「官道」の時期を推定するのに参考となるのが「狭山池」の造成年代です。
 「狭山池」については『古事記』では「垂仁」の項に記載されていますが、「東側」の「樋」に使用されていた木部(コウヤマキ)の年輪年代測定の結果から「六一六年」という年代が得られています。

「久米伊理毘古伊佐知命 坐師木玉垣宮 治天下也
 此天皇 娶沙本毘古命之妹 佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】 又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命【印色二字以音】 次大帶日子淤斯呂和氣命【自淤至氣五字以音】 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】 又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】 又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿耶美能伊理毘賣命【此女王名以音】 生御子 伊許婆夜和氣命 次阿耶美都比賣命【二柱 此二王名以音】 又娶大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命 生御子 袁耶辨王【一柱】 又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨【此二字以音】 生御子 落別王 次五十日帶日子王 次伊登志別王【伊登志三字以音】 又娶其大國之淵之女 弟苅羽田刀辨生御子 石衝別王 次石衝毘賣命 亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】 凡此天皇之御子等十六王【男王十三女王三】 故大帶日子淤斯呂和氣命者 治天下也【御身長一丈二寸 御脛長四尺一寸也】 次印色入日子命者作血沼池 又作『狹山池』 又作日下之高津池…」(『古事記』中巻) 

 また「狭山池」の「堤」の構造を見ると「基層部分」に「敷き枝工法」が使用されており、「筑紫」に築かれた「水城」や「難波大道」など「古代官道」の基礎構造と共通した技術が使用されていると見られます。これら発掘の検討からの推論として、この「狭山池」の規模が当初からのものであり、以前は小規模な池で、それが「七世紀初め」という時期に拡大、整備されたというような推測が成立できないことが判明しています。つまり「コウヤマキ」の年輪年代に程近い時期にその始源が考えられるものであり、このことは『垂仁記』記事には「潤色」があることが明確になったと考えなければなりません。(それは「埴輪」記事から既に明らかですが)
 それと同時に、「記紀」には「依網池」についても複数の起源が書かれていて、その最終が『推古紀』であることも重要です。それは「狭山池」と同じ性格の記事である可能性が高いことが示唆されるものであり、「狭山池」同様「推古朝期」(七世紀初め)という時代に整備された池であるという可能性が高いことを示すものではないでしょうか。

 七世紀初めに築かれたこれらの池はその形から「官道」を敷設した結果「湖沼」が「堤」によりせき止められる形で造られたものではないと考えられ、当初から「灌漑用」として造成されたと見られます。このことはこの時期に「稲作」を大規模に行うべき理由があったことが窺えるものです。最も考えられるのは「制度」として「租庸調」などの(不完全ではあるものの)税の徴収制度が作られたことを示すものです。ただし「租税制度」そのものは従前からあったとみられますが、それを「戸籍」と連動した「口分田」制度とした点が新しいものと思われます。このような強い権力の発現があったとすると、その時点で包括的な統治行為があったと見るべきですが、そのような中に、というよりその前提ともいうべき段階で「各諸国」を貫通するような「官道」というものが造られたとみるのが相当ですが、そのことはそれら「諸国」を統合するような「強大」な権力者の元で構築されたと考えるのは当然であり、またこのような「古代官道」がその「強大な権力者」の構築した「階層的行政制度」(ここでは「国郡県制」と共にあったと考えるのも不自然ではありません。なぜなら、そのような人物が「国郡県制」を施行し、「律令」を諸国の末端のまで行き渡らせようとしたと考えると、「制度」もさることながら、物理的に中央と各諸国を結びつける「道路」の存在は不可欠であったと考えられるからです。
 さらに「難波大道」につながる「大津道」「丹比道」や「飛鳥盆地」を南北に貫通する「上ツ道」等の「古代官道」の盛り土からは「七世紀初頭」と思われる「土器」が出ているなどの考古学的事実があり、それらを踏まえると(特に土器編年は盲信できませんが)これらがほぼ同時期の施工である可能性が強く、「阿毎多利思北孤」とその「太子」「利歌彌多仏利」の為した事業である可能性が強いと思われます。
 (「敷き枝工法」そのものは「壱岐」の「原の辻遺跡」から確認されるなどかなり時代を遡る年次から使用されていたと見られますから、この事だけからは時代特定はできませんが)

 また、この「官道」整備事業が『書紀』に(全く)記されていないこともまた重要です。その時期、労働力の確保と資金調達の方法、等々が一切不明となっています。この事は「評制」などと同様「八世紀」の「新日本王権」から「忌避」「隠蔽」されていると考えられることを示しています。
 このことに関して「改新の詔」の中に「駅伝」と「騨馬。傳馬。及造鈴契」が定められたと言うことが書かれています。

「其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。(中略)凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。」

 この「改新の詔」にはその「時期」と「内容」について疑いの目が向けられていますが、「改新の詔」自体は「六世紀末」から「七世紀終わり」まで「複数回」出されたものと考えられ、「阿毎多利思北孤」によって出されたものが「最初」のものであったと見られます。その中に既に上に見るような「駅伝」や「騨馬。傳馬。及造鈴契」などについての規定が定められていたと考えるのは、上で見た「考古学的史料」と整合するものであり、これが事実である可能性はかなり高いといえるでしょう。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2014/11/29)