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「秦」の「馳道」と「直道」との関連


 この「官道」に関連すると考えられるのが、「古代中国」の「秦」において「始皇帝」が造った「馳道」と「直道」というものです。
 「馳道」とは「国内」の諸勢力に対するものであり、「直道」は「匈奴」等の「国外勢力」に対する軍事的対応行動の為のものであったとされます。特に「馳道」は「一般人」は立ち入ることさえできない皇帝専用の道路であったものであり「戦車」も走る事ができる「軍用道路」とされていたようです。表面は「金槌」でたたき固めてあり、「戦車」など重量物が通っても「轍」などが出来にくくなっていました。(轍の幅を統一したことと表面が堅くて轍ができにくいこととは関連していると考えられています)
 また、この「馳道」は「始皇帝」が「全国巡遊」に使用したと考えられていますが、それは歴代の「倭国王」の「巡行」においてもこの「官道」が同様の意図で使用されたのではないかと推察されるものであり、その意味においても類似していると考えられます。
 「直道」はもっぱら「北方」に造らせた「万里の長城」に通じる軍用道路であり、北方からの脅威に際して「軍隊」を応援派遣する際の道路でした。そのために「最短時間」で移動する必要があり、道路もまた「直線」で構成されたのです。
 『史記』には「山を塹り、谷を堙め、直ちに之を通ず」と書かれていますが、この形容はまさしく「倭国」に造られた「古代官道」にも当てはまるものでもあります。この点においても「秦」など中国の「古代道路」と様相が似ていると言えると思われます。
 その類似は「道路幅」の規格にも及んでいる可能性があります。「秦の馳道」の幅は「五十歩」とされていますが、これは「倭国」では「短里」(一里約80メートル)で適用されたものと見られ、同じ「五十歩」とするとその値は「13メートル強」となりますが、それは「古代山陽道」などの道路幅にほぼ一致しています。

 この「秦」の「馳道」や「直道」は指定された場所以外では横断することも禁止されていたとされますが、それは大部分「古代官道」においても同様であったと見られます。それは各地の「古代官道」が「行政区分」の境界線として使用されてきたという歴史からも窺えます。例えば「難波大道」は「河内」と「和泉」の境界線であったものであり、現在でも「住吉区」と「東住吉区」との境界線であったり、「堺市」と「松原市」の境界線として使用されています。これらのことは「難波大道」の「向こう側」へは容易に行き来することができなかったことの表れであると思われます。
 さらに「筑紫」周辺では「肥前」と「筑後」の境界線として「西海道」の一部が使用されていたことが明らかとなっています。このことは「官道」の完成した時点以降その両側の往来が事実上出来なくなったことを示すものであり、その官道沿いに「筑後国府」が存在することを考えると、この時点で「肥の国」が「肥前」「肥後」に分けられ、その間に「筑後」が割り込む形となった歴史が隠されているようです。つまり「官道」の敷設時点が「境界画定」の時点であるとみられるわけです。

 後の「天平年間」に「陸奥按察使」であった「大野東人」からの奏上により「陸奥」から「出羽柵」への「官道」が造成されていますが、『続日本紀』の記事によれば五千数百の兵を用いて「陸奥国賀美郡」から「出羽国最上郡玉野(大室駅」)を経由して「比羅保許山」に至る百八十里(約百km)の新道を開いたとされています。
 この工事においても「直道」と表現され、これがほぼ「直線」道路であったことが示唆されるものであり、「沢」を生め、「山」を切り通して道路が造られたと解されます。つまり、その建設の推移は当初の「官道」の建設とほぼ同じようなことであったものと考えられるものです。

 またこの「馳道」には「漢」の時代になって「三十里」毎に「駅」が造られていたようです。「倭国」に造られた「官道」にも「駅」が造られたと見られますが(ただし「難波大道」には存在しない)、その「駅間距離」も前述したように当初は「漢代の長里」が基準となっていた可能性があるでしょう。


(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2016/08/28)