ところで『安閑紀』の「屯倉」設置記事には「備後国」という表記が見られます。
「(安閑)二年(五三五年)五月丙午朔甲寅 置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉 豐國碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉【取音讀】大拔屯倉・我鹿屯倉【我鹿 此云阿柯】火國春日部屯倉 播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉 『備後國』後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉【經此云湍 俯世】河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉【皆取音】近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉 上毛野國獄屯倉 駿河國稚贄屯倉
「筑紫」「豊」「火」という北部九州の三つの国については「分割」を窺わせる記述はないのに対して、「吉備」については分国されていたらしいように受け取れます。
「吉備」が「備中」「備後」「備前」というように分割されたのは(後で述べる「白猪屯倉」設置記事との関連から)「六世紀半ば」ではなかったかと思われ、これは『安閑紀』とされる「六世紀前半」とはほぼ整合するとも言えるでしょう。
『肥前風土記』の記事では「肥」という国名の由来と共にその後「前後に分かれた」とされており、この書き方では「肥」が単純に「前後」に分かれたように書かれていますが、「西海道」のうち「吉野ヶ里」へと伸びる部分は「肥前」と「筑後」の境界線となっており、この事は「肥」の領域に「筑紫」が割り込む形で「肥」の国が分割されたらしいこと、その契機は「古代官道」の敷設という施策の実施段階である等が推測されることとなるでしょう。(「古代官道」は横断することも禁止されていたらしいことから他の地域でも「行政組織」の境界となっていたらしいことが推察されています。)
結局、各地で行われた分国事業のうち最後に行われたのが「九州島」内部であり、それは「筑紫」が「肥」に割り込む形で「九国制」が成立したということではないでしょうか。その時期としては「遣隋使」派遣以降であることが推測され、「七世紀初頭」という時期が推測されるものです。
「分国」などの事業が可能となったのは「軍事力」を背景としているのは明らかであり、そう考えると「吉備」分割に必要なものは「古代官道」の存在であり、「古代山陽道」のうち「吉備」までが早期に着手されある程度完成されていたということが考えられますが、それは六世紀半ば付近のことである可能性が強く「吉備」地域に屯倉が設置されたという記事が『欽明紀』にあることと関係しているようです。
「(欽明)十六年(五五五年)…秋七月己卯朔壬午。遣蘇我大臣稻目宿禰。穗積磐弓臣等。使于吉備五郡置白猪屯倉。」
「(欽明)十七年(五五六年)…秋七月甲戌朔己卯。遣蘇我大臣稻目宿禰等於備前兒嶋郡置屯倉。以葛城山田直瑞子爲田令。田令。此云陀豆歌毘。」
この記事を見ると「蘇我氏」が直接「吉備」に乗り込み「屯倉」を設置していますが、よく見ると先の例で「吉備五郡」と称されているのに対し後では「備前」と表現されています。この両記事の年次は近接(連続)していますから、この年に分国されたと理解しない限り「吉備五郡」という地域と「備前」の地域とは重なることが想定でき、そう考えれば「白猪屯倉」と「児島郡」に置かれたという「屯倉」は別のものであると了解できます。
またここでいう吉備五郡とは以下の『応神紀』に現れる「五縣」と同じものと思われます。
「(応神)廿二年…秋九月辛巳朔丙戌。天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海在難波之西。峯巌紛錯。陵谷相續。芳草薈蔚。長瀾潺湲。亦糜鹿鳧鴈多在其嶋。故乘輿屡遊之。天皇便自淡路轉以幸吉備。遊于小豆嶋。
庚寅。亦移居於葉田葉田。此云簸娜。葦守宮。時御友別參赴之。則以其兄弟子孫。爲膳夫而奉饗焉。天皇。於是看御友別謹惶侍奉之状。而有悦情。因以割吉備國封其子等也。則分『川嶋縣』封長子稻速別。是下道臣之始祖也。次以『上道縣』封中子仲彦。是上道臣。香屋臣之始祖也。次以『三野縣』封弟彦。是三野臣之始祖也。復以『波區藝縣』封御友別弟鴨別。是笠臣之祖也。即以『苑縣』封兄浦凝別。是苑臣之始祖也。即以『織部縣』賜兄媛。是以其子孫於今在于吉備國。是其縁也。」
ここには「子孫が今吉備国に在る」という表現がされており、この「今」とは『書紀』編纂時点のことである可能性が強く、「吉備」は分割後も「吉備国」という呼称が継続使用されていたらしいことが窺えます。
「分割後」はさらに『仁徳紀』にも「吉備中国」という表現が出てきます。
「(仁徳)六十七年…是歳。於『吉備中國』川嶋河派有大■令苦人。時路人觸其處而行。必被其毒以多死亡。於是。笠臣祖縣守爲人勇捍而強力。臨派淵以三全瓠投水曰。汝屡吐毒令苦路人。余殺汝■。汝沈是瓠則余避之。不能沈者仍斬汝身。時水■化鹿以引入瓠。瓠不沈。即擧劔入水斬■。更求■之黨類。乃諸■族満淵底之岫穴。悉斬之。河水變血。故號其水曰縣守淵也。…。」(日本書紀卷第十一 大鷦鷯天皇 仁徳天皇)
ここに「吉備中国」という表現があり、「吉備国」が分国されているらしいことが推察されますが、その「中国」の中に「笠臣祖縣守」という人物の存在が書かれており、これ『応神紀』の記事に出てくる「御友別弟鴨別」と思われ、彼が「波區藝縣」の「縣守」としてこの地を治めていたことがしられます。そのことは「吉備五郡」あるいは「吉備五縣」というものが「吉備」の分国と併存していたことを示すものであり、分国されて以降も以前の「縣」各国が各々国内に「郡」あるいは「縣」を有しそれが総計五箇所であったらしいと推察できるでしょう。
(ちなみに中国では歴代「国−郡−県」制であり、当時の倭国がこの制度を模倣・導入していなかったとは考えられません。「郡」を廃止し「国」の直下に「縣」を置く制度は「隋代」まで待たなければならなかったはずであり、この『応神紀』の記述もその反映と考えれば、『応神紀』自体の時代性を考える必要が出てきます。)
また、「国−郡−県(縣)」という行政制度は倭国では王権に非常に近い関係を持つ場所(直轄地)に限定されていたと思われ、この記事は「吉備国」自体が「倭王権」の直属の場所であったことを示しています。
その後当該地域に対して「戸籍」を作成しているようです。
「(五六九年)卅年春正月辛卯朔。詔曰。量置田部其來尚矣。年甫十餘脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者。王辰爾之甥也。檢定白猪田部丁籍。
夏四月。膽津檢閲白猪田部丁者。依詔定籍。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。尋拜田令。爲瑞子之副。瑞子見上。」(欽明紀)
このようなことは当然元々「吉備」にいたであろう権力者の頭越しに行われたものと思われますが、そのような作業を可能とする前提として「古代官道」の存在があり、それは「軍事力」を背景として「吉備」という地域に対して「強い権力」を適用する条件が整った事を示すものと考えられます。この「屯倉」設置記事や「犬養部」設置記事が「吉備」を分割した時期に近いとすると、それらは同様に「六世紀半ば」付近にその年代を措定することが出来るでしょう。
ところで、すでに見たように「六世紀半ば」という時期に「吉備」に複数の「屯倉」ができたらしいことが推定されているわけですが、このことと「吉備嶋皇祖母尊」の所有していた「貸稻」とが関連していると見るのは自然です。
『書紀』に「貸稲」に関する記述がみられるのは『孝徳紀』の「東国朝集使」の報告に対する応答(以下のもの)の中に現れるのが初見です。
「(六四六年)大化二年三月癸亥朔辛巳条」「詔東國朝集使等曰。…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々『貸稻』。以其屯田班賜群臣及伴造等。又於脱籍寺入田與山。」
この『孝徳紀』に書かれた「吉備嶋皇祖母處々『貸稻』」というものについての詳細は不明な訳ですが、「百済」における「貸稲」制度との関連からみて(※)この記事のように七世紀半ばにその起源を持つという通常の解釈は大いに疑問といえ、少なくとも「六世紀後半」には「倭国」にそれが制度として存在していたことを窺わせるものですが、「吉備」という地名をその名に負っている「人物」が「吉備」という地域に関係していないとすると不自然ですから、そう考えると上に見た「吉備五郡」に設置されたという「白猪屯倉」が「吉備嶋皇祖母處々貸稻」に関するものと考えるのは当然ということになるでしょう。つまりこの地域は「東国国司詔」の「吉備嶋皇祖母」の所有する「處々貸稻」の本拠であると思われるものであり、その「貸稲」が「白猪田部」の管理するところのものであったことは間違いないところです。
また、この「屯倉」設置記事を見ても殆どが西日本であり、東日本は「尾張」「上毛野」「駿河」の三国の四個所しかありません。
(東日本を除けば)これらは「古代官道」のうち「山陽道」が最初に出来たと考えられていることにつながります。つまり、「西海道」(九州内部)とそれを「近畿」に連結する「山陽道」が最初に出来たであろう事がこの「屯倉」設置記事から窺えるものです。
(※)李鎔賢「百済木簡 ─新出資料を中心に」 国立扶余博物館 2008/8/10
(この項の作成日 2013/09/25、最終更新 2017/02/23)