「古代官道」の造成の時期は、遺跡自体からは判定しがたく(土器その他が出土しても「道路」との関連が確定されないため)、現在まだ未確定ではあるものの、『書紀』の記事からの推定としては「七世紀」のはじめの『推古紀』と考えられているようです。しかしこの『推古紀』については既に見たように真の年代について疑いが生じており、一概に「七世紀初め」というような断定は出来ません。
古代官道に関すると思われる記事の最古のものは以下のものです。
「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」
この「自難波至京置大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。
そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は「筑紫都城」を指すものと考えるべきでしょう。
ところで『仁徳紀』にも「大道」記事があるのが注目されます。
「(仁徳)十四年冬十一月。(中略)是歳。作大道置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。」
この『推古紀』と『仁徳紀』の二つの「大道」記事は一見「同じもの」とも考えられそうですが、そこでは「仁徳」の「難波高津宮」から「真南」に「大道」を作ったこと、それが「丹比邑」まで続いていたことが記されています。ということはこの「大道」は上の『推古紀』の「大道」とは異なるものといえます。
「二〇〇八年」になって、実際に推定されるルート上に「大道」が存在していたことが発掘により明らかとなったわけですが、それを見ると正確に「難波京」の「朱雀大路」の延長線に重なっており、このことから「難波大道」と「難波京」の間には深い関係があると考えられることとなります。
上の「仁徳紀」の記事にも「京中」に「大道」を造ると書かれており、また「南門」から「直指」とするという表現と発掘の状況は全く同じと思われます。これは「朱雀大路」を念頭に入れた表現であるのは当然ですが、他方発掘された「前期難波宮」には「朱雀門」と推定される場所の前にはかなり深い谷が存在していた事が明らかとなっています。現在のところその谷は埋められた形跡がなく、また「橋」の存在も確認されていないため、この「大道」がこの「前期難波宮」の「朱雀門」まで延びて接続されていたかはかなり疑問と思われます。このことは「難波高津宮」と「前期難波宮」とが「等しい」存在ではないという可能性を示唆するものであり、この「大道」が接続されていた「難波高津宮」は「前期難波宮」とは異なる場所にあったと考えられることとなります。ただし、同じ「(仮想)大道」の延長線上にあったことも確かであり、「前期難波宮」のやや南側に位置していたものではないかと考えられるでしょう。(これは推定される「難波高津宮」位置と矛盾しないものでもあります)
また、この「難波大道」が「丹比邑」までのものとしか書かれておらず、その先について記述されていない事にも注目です。このことは「難波大道」の建設目的が「飛鳥」などとの連絡用ではなく、「丹比邑」まで延長するというそのことだけにあったことを意味し、それはその「丹比邑」に何か重要施設的なものがあったことが推定できますが、そこには「仁徳」の「古墳」とされている「百舌耳原古墳」が存在しています。この古墳の築造時期は「五世紀後半」から「六世紀前半」とされており、明らかに「難波大道」が造られた段階と古墳が造られた段階が重なっていることとなるでしょう。そこに向かって「大道」が造られたとすると、両者の間には深い関係があることは明白であると思われます。
このことから「古代官道」の中で最も初期に造られたものが「難波大道」であると考えられる事となり、それは「六世紀初め」からさらに「五世紀代」まで遡上する性格を持っているということになります。発掘からもこの「大道」を直交して横切る「溝」が確認されており、この地域全体として「正方位」をとる道路、溝などが存在していたことが明らかになっていますが、(「堺市長曽根遺跡」で発掘された「大溝」や「古市大溝」など)それらがいずれも「五世紀代」と考えられていることも重要でしょう。
また「難波大道」がかなり早い段階で造られていたらしいことはその道路幅として確認された「17m」という数字にも表れています。(両側に側溝がありその心−心で18.5mとされる)
この道路幅は他の官道の規格とやや異なっていると見られます。近畿においては官道の幅として20m程度あった見られますから、それよりやや狭いこの「難波大道」が同じような時期の造成であるとか、同じ規格であるというような想定は難しいことを示すと思われます。これは当然「隋・唐」の規格ではないこととなりますが、そうであれは「短里」規格であったと推定され、一里=80m程度を基準として構成されているように思われ、この大道の幅として「七十歩」(ただし「心―心」)で造られていたとみられます。
そしてその後、その「難波大道」に接続させるために「丹比道」「大津道」など東西に連絡する官道が造られ、さらにそれに接続するべく「山陽道」が延伸されたとみられます。
また先の『推古紀』の「又自難波至京置大道。」という記事を見ると、その直前に「池」を造るという記事がある事に気がつきます。これらの「造池」記事と前後して「造大溝」「造大道」記事が並んでいるのです。
これは、この「大道」、つまり「官道」を「置く」という作業と関係していることを示しています。つまり「古代官道」の遺跡においてしばしば見られることですが、直線的に道路を敷設するために「沢」などを「横切って」おり、そのために「堤防」などを築いていることが知られていて、結果的にそこには「池」ができる場合があります。この記事における「造池」も同様のことを示しているのではないかと思われます。
それを示すように「造池」記事を『書紀』で検索すると「推古朝」が最多で「九箇所」作っており、群を抜いています。これらが「純粋」に「農業の灌漑用水源」であるという場合もあるでしょうけれど、このうちのいくつかは「官道」の敷設と関係があるのではないかと推量されるものです。
さらに「道」を造る場合「溝」や「池」とともに、その沿線に造られたとされる「屯倉」についても関係していると考えられます。なぜなら「屯倉」とは本来は「邸閣」的なものであり、戦闘要員に対する食料共給が本義であったと思われ、「農耕」などの「余剰生産物」を収容する施設であり、その後それらを「王権」に直送するという性格も出てきたものですが、「池」や「溝」が「灌漑」と関係しているとすると、その意義が「農耕」の利便性のためのものであって、そこからの生産物の一部が「屯倉」に収納されるとすると、同時ないし近接して記事があって当然でもあるからです。それは以下の記事に現れています。
「(仁徳)十二年冬十月。掘大溝於山背栗隈縣以潤田。是以其百姓毎年豐之。」
「(仁徳)十三年秋九月。始立茨田屯倉。因定春米部。
冬十月。造和珥池。
是月。築横野堤。」
「(仁徳)十四年冬十一月。(中略)是歳。作大道置於京中。自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。」
このように『仁徳紀』ではほぼ連年「溝」を掘り「田」を潤し、そこから収穫された「稲」などを収納する「屯倉」を造り、「作業集団」としての「春米部」を定め、また運送のための道路を造り、また「用水」として「池」を造り、また「溝」を掘るということを連続して行なっているのがわかります。
これは「道」(官道)を作ることにより、「統治」の実質が進捗、遂行されていく過程を明確に表しています。
同様のことは『常陸国風土記』の記事からも確認できます。そこには「池堤」を造る記事と「駅道」記事が連結されています。
「至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 壬生連麿初占其谷 令築池堤時 夜刀神昇集池辺之椎株 経時不去 於是麿挙声大言 令修此池要在活民 何神誰祇不従風化 即令役民云目見雑物 魚虫之類無所憚懼 隨尽打殺 言了応時 神蛇避隠 所謂其池 今号椎井池 池回椎株 清泉所出取井名池 即向香島陸之駅道也」
このように「池堤」のあった場所は「駅道」の場所でもあったわけであり、元々「谷」であり「池」であった場所を貫通して「道路」を造ったと思われ、そこに「堤」ができたと言うことを意味すると考えられます。
この時代が「難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世」とされ、また「壬生連麿」という人物が登場しますが、上の文章中では「初」という形容がされていますから彼が「赴任」してまもなくの時期である事が推測され、少なくとも七世紀の前半あたりには「我姫」(常陸)にも高規格道路が造られていたことを示唆するものといえます。この時点で大量の軍事力が展開可能となったことが上の逸話の背景にあるものと考えられます。
(この項の作成日 2012/03/15、最終更新 2015/10/03)