『筑後国風土記』には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についてのものがあります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「刑部」の職掌そのものであると思われます。
『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
「縣南二里,有筑紫君磐井之墓。墳高七丈,周六十丈,墓田南北各六十丈,東西各卅丈。石人?石盾各六十枚,交陣成行,周匝四面。當東北角,有一別區。號曰解部。前有一人,裸形伏地。號曰盗人。生為?豬,仍擬決罪。側有石豬四頭。號曰賊物。賊物,盜物也。…」
(以下読み下し)
「縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚交陣行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。…」
後の『養老令』でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な「刑事・警察」を職掌としていた過去を反映していると考えられます。そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと考えられ、彼の時代に「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったと考えられます。
この「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に彼の業績を讃える意味で彼の「御名部」となり、「押坂(忍坂)部」となったものと思われますが(さらに言えば、彼が「磐井」の後裔であったという可能性も考えられ、そのため「解部」を「伴部」としていたということかもしれません)、その後「御名部」の返還という事態となって、「押坂(忍坂)」という名称が外され、再び「解部」に戻されたものと思料します。(「刑部」という名称となったのは『大宝令』以後と思料されます)
なお「律令」そのものは「前述」の「磐井」の墳墓の様子でも容易に推察されるようにこの時代に「律令」が定められていたであろう事、その中心はやはり「律」であったであろう事が理解できます。(この「律令」の制定に関わったのは「武」の晩年時代の「磐井」ではなかったかと考えられますが)
しかし、「物部」の「筑紫占拠」という事態になって、「律令」は有名無実となったと考えられ、死文化していたと思われます。
『古事記』の記事を信憑すると「押坂彦人大兄」は「甲辰年」(五八七年)には死去しているとされますから、「守屋」を打倒して「筑紫」を解放するという事業は彼の「弟王」である「難波皇子」達により行われたものではないかと考えられることとなります。
彼らは「守屋」打倒を果たした後、改めて「律令」を改定施行したものと考えられますが、それを示唆するのが『隋書俀国伝』の記事です。
『隋書俀国伝』の記事によると、そこにはしっかりした刑法が存在していた事が判ります。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたことが窺えます。
「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」
この内容は「開皇年間の始め」に派遣された遣隋使の語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
このような「刑法」を含んだ「律」中心の「律令」が新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であったという可能性が高いと思料します。
また、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は「倭国内」に広く存在・分布していたものと見られ、(「刑事・警察」はどのような場所にも必要であったでしょうから)実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。
「皇太子の下問の詔」では「其群臣連及伴造、國造所有昔在天皇曰所置子代入部」「皇子等私有御名入部」「皇祖大兄御名部入部」というように、かなりの数に上るであろう「群臣連及伴造、國造」が私有している「入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれるほどのウェイトを占めていたと考えられ、「獻入部五百廿四口」という中のかなりの数は「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったかと推察されるものです。
実際に「和名抄」に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であることが判ります。これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
後でも述べますが、「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。そのことから考えると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたというのはある意味当然ともいえると考えられます。
先に挙げた「中村幸夫氏」の論では、「皇祖大兄」とは「天智(中大兄)」を指すとされます。それはこの「改新」の詔全体が潤色であると見る立場からですが、その場合「御名部」とは「何部」になるのかが言及されておらず不明です。それは「正木氏」の論においても同様であり、「皇祖大兄」を誰に充てるかという論は即ち「皇祖大兄の御名部」とは「何部」という事が問題となると思われますが、それは議論された形跡がありません。
「中大兄」は幼名が「葛城皇子」でしたから、その類推から考えると「葛城部」という「部」になりそうですが、『書紀』や『古事記』では「葛城部」は「允恭天皇」の「皇后」と関連して語られており、別の起源を持つとされています。
(仁徳紀)「仁徳七年秋八月己巳朔丁丑条」「爲大兄去來穗別皇子定壬生部。亦爲皇后定葛城部。」
(古事記下巻)「大雀命 坐難波之高津宮 治天下也…此天皇之御世 爲大后石之日賣命之御名代 定葛城部亦爲太子伊邪本和氣命之御名代定壬生部…」
更にこの「葛城部」がその帰趨が問題になるほど大量にはいなかったと推定される事からも、「詔」にいう「皇祖大兄」の「御名部」ではなかったと推定されることとなりますが、そうであるとすると「献上」する「御名部」がなかったにもかかわらず「記事」が構成されていることとなり、不自然であると思われます。この点からは「皇祖大兄」が「中大兄」とはいえないこととなります。(正木氏の論も同様の意味で不適格と思われます)
ところで、『書紀』に書かれた「山背大兄」の失脚の場面では「蘇我入鹿」が「高向国忍」に対して至急「捜査して、捕らえるように」という指示を出しています。ここで指示されたという「高向国忍」は『続日本紀』等によれば「刑部尚書」つまり「刑部省」の長官とされ、「刑事・警察権力」の頂点にいた人物でした。「蘇我」は天皇の権威を上回る行動を取ったとされていますが、それは「刑事・警察」という国内統治の「ツール」を手に入れていたからであり、そのことは「国政」を統治するためには必ず「刑事・警察権力」を手中に収めなければならないことを示します。「押坂彦人大兄」もやはり「刑事・警察」を抑えた上でそれを自在に操るために「法」を整備したものであり、結果として大量の「御名部」を持つなど絶対的権力を発揮したものではなかったでしょうか。しかもそのことは『常陸国風土記』に「我姫」を統治するために派遣された「惣領」として「高向臣」が出てくることにも現れていると考えられます。
この「高向臣」と前述の「高向国忍」とが「無関係」であったとも考えにくく、元々彼等は「解部」を職掌とする氏族であったのではないかと考えられ、「惣領」たる「高向臣」もその「惣領」という名にふさわしく「総帥権」を持っていたと考えるべきであり、(後でも述べますが「軍事」に関する権能も有していたと考えられます)「刑事」「警察権」をも保有していたと見るべきでしょう。それは「国司」に対して「管内」の訴訟を自ら裁いてはいけないという趣旨の「詔」が出されていることと関係していると思われます。それは「惣領」の役目柄であったと言う事を示しているのではないでしょうか。そのような「惣領」という職掌を、「我姫」を始め各地に配置するというようなことも「押坂彦人大兄」の業績の一端に存在するものと言うべきでしょう。(このことからもこの「押坂彦人大兄」という存在が「阿毎多利思北孤」によく重なると云えるでしょう。)
(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2014/12/20)