先に見た『書紀』の記事の中では「彦人大兄」という人物について「皇祖大兄」という「尊称」が奉られているわけですが、この「皇祖」という表現は「ただごと」ではなく、「彦人大兄」という人物の「本質」が窺われるものです。
『書紀』に「皇祖」の例を探すと、「瓊瓊杵尊」が「皇祖」として扱われています。「瓊瓊杵尊」は「天孫降臨」の当事者であり、正に「初代の王」です。
また、他にも例がありますがその中でも『持統紀』に現れるものに注目すべきでしょう。それは「倭国王」の死去の際に「弔使」として訪れた「新羅」からの使者(金道那等)に対するものです。
そこでは、「皇祖」の代から「『清白』な心で仕奉る」といっておきながら、実際は違うと言うことを非難しています。
「(持統)三年(六八九年)五月癸丑朔甲戌条」「太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。■金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉■金薩儒等奉弔。而今以級■奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。又奏云。自日本遠皇祖代。以清白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷清白詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」
このように非難している訳ですが、このような「新羅」が服従の姿勢を取ったという「遠皇祖代」とはそもそもいつのことを指すのかというと、以下の記事が該当すると思われます。
「推古八年(六〇〇年)春二月。新羅與任那相攻。天皇欲救任那。
是歳。命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍並闕名。則將萬餘衆。爲任那撃新羅。於是。直指新羅。於是直指新羅以泛海往之。乃到于新羅攻五城而拔。於是。新羅王惶之。擧白旗到于將軍之麾下。而立割多多羅。素奈羅。弗知鬼。委陀。南加羅。阿羅々六城以請服。時將軍共議曰。新羅知罪服之。強撃不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉師神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並検校事状。爰新羅任那王二國遣使貢調。仍奏表之曰。『天上有神。地有天皇。除是二神。何亦有畏乎。自今以後。不有相攻。且不乾般柁。毎歳必朝。』則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。弭新羅亦侵任那。」
また、これとは別に「神功皇后」により新羅遠征記事があり、そこでも以下のような言葉が新羅王から語られているとされます。
「仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)「冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。時飛廉起風。陽侯擧浪。海中大魚悉浮扶船。則大風順吹。帆舶隨波。不勞■楫。便到新羅。時隨船潮浪達逮國中。即知。天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗。■身無所。則集諸人曰。新羅之建國以來。未甞聞海水凌國。若天運盡之國爲海乎。是言未訖間。船師滿海。旌旗耀日。鼓吹起聲。山川悉振。新羅王遥望以爲。非常之兵。將滅己國。■焉失志。乃今醒之曰。吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可擧兵以距乎。即素旆而自服。素組以面縛。封圖籍。降於王船之前。因以叩頭之曰。『從今以後。長與乾坤。伏爲飼部。其不乾船柁。而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠。以毎年貢男女之調。』…」
このように「神功皇后紀」にも『推古紀』と同様の記事が確認できるわけですが、それ以降「欽明紀」には「任那」をめぐって戦闘が発生しています。そのようなことを考えると、「倭」−「新羅」間は平坦な関係ではなかったこととなり、この『持統紀』で改めてそこまで遡って指弾するというのも不審です。それよりは『推古紀』というまだしも近い過去においての「誓約」が守られていないという事を非難していると考える方が論理的ではないでしょうか。
また、「神功皇后」そのものを「皇祖」と呼称した例が見られないこともあり、ここでいう「皇祖」の代とは「六〇〇年付近」を指す用語として使用されていたことと判断できる事となります。
ところで、『書紀』には他にも「皇祖」記事がありますが、それは『書紀』の編纂過程の各々の段階で「皇祖」と呼びうる人物がいた事を示すと思われます。例えば上に見た『推古紀』段階では、「五世紀」の「倭の五王」の内の誰か(「讃」か)に該当すると思われる「崇~天皇」を「皇祖」とみなしていると推定できる記事があります。また「神代紀」では「高皇産霊尊」を「皇祖」と読んでいる例もあります。
「『日本書紀』巻二神代下第九段本文」「天照太神之子。正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫。生天津彦彦火瓊瓊杵尊。故皇祖高皇産靈尊。特鍾憐愛以崇養焉。遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主。然彼地多有螢火光神及蝿聲邪神。…」
更に以下の記事では「代々の皇祖」という言い方がされており、この場合は対として語られている「卿祖」とともに単に「祖先」の意で使用されていると思われ「普通名詞」となっているように感じられます。
「大化二年(六四六年)三月癸亥朔甲子条」「詔東國々司等曰。集侍羣卿大夫。及臣連。國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。夫君於天地之間。而宰萬民者。不可獨制。要須臣翼。由是代々之我皇祖等。卿祖考倶治。朕復思欲蒙神護力共卿等治。故前以良家大夫使治東方八道。既而國司之任。六人奉法。二人違令。毀譽各聞。朕便美厥奉法。疾斯違令。凡將治者。若君如臣。先當正己而後正他。如不自正。何能正人。是以不自正者。不擇君臣。乃可受殃。豈不愼矣。汝率而正。孰敢不正。今隨前勅而處斷之。」
また、『天武紀』には「皇祖の御魂を祭る」という記事があり、これについては「特定」の「倭国王」についてのものではないかと考えられるものであり、上のような「普通名詞」としてのものではないと考えられます。
「(天武)十年(六八一年)五月己巳朔己卯(十一日)祭皇祖御魂。」
ここに書かれた「五月十一日」というのは「二十四節季」の一つである「芒種」であり、「種まき」や「田植え」をすべき時期とされています。このような時点で「皇祖」の「御魂」を祭っているのは、その「皇祖」が「食」や「稲」に深く関係する「神」とされていたからと考えられ、『書紀』の神話に出てくる「保食神」や「宇迦之御魂神」がそれに当たるものと考えられます。この神に投影されている人物としては「利歌彌多仏利」が考えられますが、それはこの記事が「三十四(五)年遡上」されるべき記事であったとしたとき良く理解できるものといえるでしょう。つまり本来は「六四六年」の事であったとすると、その年次は「利歌彌多仏利」が死去したと推察される年であり、(「命長年号」から「常色」に改元されています。)その場合ここに書かれた「皇祖」の「御魂」を「祭る」儀式そのものは「大嘗祭」の「先蹤」を成すものであったという可能性があると考えられます。
しかし、いずれにしろ、ここでは「皇祖」だけではなく「大兄」が付随していますから、「普通名詞」ではないことは確かであり、原注に「押坂彦人大兄」とあるのですから、その線でまず考えるというのは常道ではないでしょうか。
このように「彦人大兄」は「皇祖」という称号を冠せられて呼称されているわけですが、『古事記』によれば「御陵」があるとされます。
「古事記敏達天皇の段」
「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 此天皇 娶庶妹豐御食炊屋比賣命 生御子 靜貝王 亦名貝鮹王 次竹田王 亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 又娶伊勢大鹿首之女 小熊子郎女生御子 布斗比賣命 次寶王 亦名糠代比賣王【二柱】 又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又娶春日中若子之女 老女子郎女生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】
此天皇之御子等并十七王之中 日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 又娶庶妹玄王生御子 山代王 次笠縫王【二柱】 并七王【甲辰年四月六日崩】 御陵在川内科長也」
この記事にあるように「敏達」の記事中にわざわざ別に「日子人太子」についてその夫人と子について述べており、さらに「敏達」については書かれていないにもかかわらず「日子人太子」については「崩年」と「御陵」が書かれています。
この「崩年」と「御陵」が「敏達」のものでないのは『書紀』との圧倒的な食い違いがそれを示しています。
そもそも『書紀』では「敏達」について「殯宮」については書かれているものの「陵墓」についての記載がありません。「崩年」についてもその年だけではなく月も日も異なるように書かれていますから、この『古事記』に書かれた「崩年」記事なども「日子人太子」のものと考えるべきでしょう。
他の皇子達がいる中で当の天皇の崩年等を書く場合は「此の天皇」と言う語を前置するらしいのですが、ここにはそれが見られません。そう考えると、彼については「天皇」同様の記事の書き方であることとなり、彼が「即位」していたということが(明確には書かれていないものの)、ここで強く示唆されているようです。(少なくともこのように「太子」について項を改めて書かれているのはこの「日子人太子」以外には『古事記』中には見あたりません。)
このように『古事記』では「重要人物」という扱いをされているわけであり、それは「皇祖」という称号にふさわしいと言えるでしょう。
ところで、彼の御名部であったと考えられる「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)(=「刑部」(おさかべ))は、「彦人大兄」の「御名」がかぶせられる以前は何であったのでしょうか。
そもそもこのような「治安維持」に関する職掌がそれ以前になかったということは考えにくいものですから、該当する「部」は始めて作られたものでないと思われます。つまり、この時点で「改名」させられたものと考えられますが、職掌から考えてそれ以前の呼称は「解部」であったのではないかと推測されます。
(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2014/12/07)