ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:「皇祖大兄」とは:

皇祖大兄四


 この「皇太子への下問の詔」では「皇子」に対して「私有する御名部」についてどうするか「皇太子」に問いかけています。それを問われた皇太子は「書」を使者に持たせ、文書で回答していますが、結局「天皇」に献上するとしています。
 このやりとりから考えて、文章中の「皇子」は自分の子供を指しているものではないと考えられますし、また「皇太子」は傍にいないと言うことも判ります。
 「皇子」がその「名」を取り込んだ「御名部」を私有するのに、「父」である「天皇」(ここでは倭国王)がその経緯についてあずかり知らないと言うことは考えられず、「御名部」を保有する経緯に「現倭国王」(「現爲明神御八嶋國天皇」)が関与していないことは明白です。ましてやそれを「父」に「献上する」というのは奇妙な話といわざるを得ません。つまり「現倭国王」は「皇子」や「皇太子」の父ではないと云うこととなるでしょう。

 また、ここでは「皇太子」という人物が「臣」として「使者」を派遣して「奏請」し、「奉答」しており、これは「表」(文書)によって天皇と応答していることとなるのが注目されます。
 「屯倉」の数量等細かい数字が書かれているのは、使者が「口頭」ではなく「文書」を持参した事を示唆していますから、ここでは「皇太子」が「表」(文書)によって天皇と応答していることとなりますが、これは「倭国」では珍しい出来事です。「倭国」ではそれまでの歴史でもそれ以降でも「天皇」と「皇太子」ないし「臣下」の会話が「表」によるということはありませんでした。
 また、このような「表」による応答というものが『大宝令』にも規定されていないのは基本的には「八世紀」の天皇家と「臣下」の諸豪族との間には「共通」の権力基盤があり、ある意味一心同体であったからとも考えられるものです。
 しかし、この「改新の詔」の時点では「天皇」の諮問に対して「皇太子」なる人物は「使者」を遣わし「表」を「奉じて」回答しています。
 この「臣」が「皇太子」を指すならば、「天皇」と「皇太子」はよほど遠距離に離れて所在している事を示すと考えられます。でなければ、直接面前で応答することでしょう。
 
 また、この「詔」の中には「品部の接収」などと違って、「朕」が現れません。あくまでも「天皇」と「皇太子」が主人公として現れます。他の「詔」では「朕」と「今之御寓天皇」という両者が主人公とされており、それらとは状況設定が異なると考えられます。このことから、この「皇太子使使奏請」条そのものが「時代の様相」が異なることが推定されます。
 
 また、この文章中には「昔在天皇」という表現があります。

「昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。」

 つまり「昔在天皇等世」には「天下」がまとまって一つであったものが今では各国がばらばらになったという訳です。「天下」つまり「倭国」が「混齊」つまり、「国内」のどこも「混じり合って等しい状態」となっていたという訳ですから、これは「強い権力者」が「倭国」の全体を「統一」していた時代を指す表現と思われます。それは「阿毎多利思北孤」に始まり「七世紀半ばの難波朝期」ぐらいまでを指すものと考えられるものです。
 この時代は「官道整備」などを始め、「難波宮殿整備」など非常に高度の中央集権的事業が行なわれたことが確実視されており、それは「強い権力者」の存在を前提にしなければ理解できないものです。
 これに対し「分離失業」した状態というのはそれ以降を指すと考えられ、「唐」「新羅」との戦いに敗北し、「倭国王朝」の求心力が大きく低下した時代を言うと考えられます。この時代には「天智」による革命などもあったものと推定され、各諸国では誰を「倭国の盟主」と仰ぐべきか決めかねていたものとではないかと推測されるものです。
 それをここでは「天人合應。厥政惟新」という訳ですから、改めて「天」つまり「天神」を表徴するものであり、これは「九州倭国王権」の本拠地からの「てこ入れ」があったことを示し、「政」つまり政権運営の全てを全く新しくするという訳であり、それを「歓迎する」というわけです。
 これらの時系列から考えて、これは「いわゆる」持統紀が該当すると考えられ、「禅譲」により「日本国」が新王朝として誕生した時点のものであり、「朱鳥改元」及び「藤原副都」への「遷都」時点の発言と考えられます。それは、この段階まで「忍坂部」が存続していたことを示すものと思われ、この「詔」によりこれ以降「解部」に戻されたものと思料します。それを示すものが『持統紀』の「庚寅年」に出てくる「解部増員」記事です。

「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」

 ここに書かれたような大量の「解部」増員記事は一見不審です。それはこの「解部」が『大宝令』にも規定されているものの、その地位はかなり低く当時すでに重視されるような職掌ではなかったことが知られているからです。
 また『大宝令』は「飛鳥浄御原令」を准正としたと書かれており、大宝令の「解部」の状況は必ず「飛鳥浄御原令」の実情でもあったはずですが、そう考えると「解部一〇〇人」という大量増員は考えにくいこととなると考えられています。それは『大宝律令』も、それが「准正」としたという「飛鳥浄御原朝廷の制」も、かなりの部分が「唐制」(『永徽律令』(六五〇年施行))に則っているとされており、特に「律」の部分は「令」よりもはるかに「唐制」に近いとされ、倭国独自のものというのはそう多くはないというのが言われています。
 しかも、この「解部」というのはその「唐制」にはない「職掌」ですから、このような大量増員が「持統朝」の出来事とするのは、「矛盾」であると思われます。
 しかし、この矛盾は「忍坂部」から「解部」への復帰という内容に置き換えて考えると納得しうるものであると思われます。つまり、これは「御名部」の返還という中で、それまでの「忍坂部」を名称変更して「解部」として再配置したものと考えることができると思われます。
 しかしその後「解部」は「律令制」から「はみ出した」状態となっていたと考えられ、下記にあるように「八〇八年」には消滅してしまい、「刑部」という「漢語」と(おさかべ)という「訓」だけが古の状態を遺存してしまったものと推量します。

「日本後紀卷十六逸文大同三年(八〇八)正月壬寅廿」「(『令集解』職員令)壬寅。詔曰。觀時改制、論代立規、往古沿革、來今莫革。故虞夏分職、損益非同。求之変通、何常准之有也。思欲省司合吏、少牧多羊、致人務於清閑、期官僚於簡要。」…(『類聚國史』一〇七刑部省)臓物司、併刑部省。刑部解部、宜從省廃。」

 以上「皇祖大兄」を『書紀』の「注」の通り「(押坂)彦人大兄」として解釈してみましたが、この解釈によれば「六世紀後半」と考えられる「倭国統一王権」の誕生の過程と重ねて考えることができるとともに、「七世紀末」の「庚寅年」の改革についても説明が可能であり、より整合性が高いものと思料します。


(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2014/12/20)