「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」というものが(「拓本」が)発見されました。
この「百済禰軍」という人物は『三国史記』中に出てくる「司馬禰軍」と同一人物と考えられます。
「司馬禰軍」は「文武王十年」(六七〇年)に「熊津都督府」から「新羅」に派遣された人物であり、「文武王」によりそのまま「新羅」に「留められ」ていたもので、つまり、一種の「人質」(ないしは「捕虜」)のように扱われていたものです。それは「熊津都督府」と「新羅」の「利害」が対立するようになっていたからであり、旧「百済」の勢力と「唐」が(その出先である「熊津都督府」が)「結託」しているように見えたからでしょう。
その後「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
彼は「百済」の「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
彼の存在は当時の「倭国」の動向、特に「天智」の動向に直接関わっています。