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「百済禰軍墓誌」についての見解


 この「百済禰軍」墓誌には興味あることが書かれています。
 問題の部分は以下の文章です。
(丸数字で問題部分を区切っています)

①「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金磾子之入漢(二文字空け)(注二)聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛滻川府折沖都尉。」
②「于時日夲餘噍 拠扶桑以逋誅 風谷遺甿 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原虵而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
③「公侚臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/翥凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。

(この「墓誌」の中では「唐皇帝」に関する文字は「二文字」空けて記述しているようです。それは「上」に「文字」が乗ることを避けているのだと思われます)

 ①については、これは「顕慶五年」(六六〇年)という年次の表記から考えても、「百済」滅亡の時のことを記したものと考えられます。

「(旧唐書百済伝)顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。」

 また、ここでは「金〔石+單〕子」の故事を踏まえた文章となっているようであり、自分を「元匈奴」の王子であった「金〔石+單〕子」になぞらえていると考えられます。(彼のように「馬飼」(奴隷)まで身を落としたかは不明)
 そして、この文章の直後の②について細かく見てみると、「餘噍」といい「遺甿」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
 この文章から受けるニュアンスとしては、それが「近畿」であれ、「筑紫」であれ、「本来の首都に倭国王がいる」とすると似つかわしくない表現であると考えられ、「本来の首都ではない地域」に「残存勢力」が移動(逃亡)しているというように受け取られるものです。
 ところで、『海東諸国記』によれば「六六一年」に「近江」へ遷都したこととなっています。しかし『書紀』によればそれは「六六八年」のことであったとされており、大きく食い違っています。
 「倭国中枢」が本拠(首都)にいるのであるなら、この「墓誌」にあるような「逋誅」(罰から「逃げている」)という表現や「居扶桑」という表現は似つかわしくないと考えられます。
 つまり、その時点ですでに「扶桑」(日の出るところと中国から思われていた場所)にいたことを示すものと考えられ、「扶桑」が「日の出るところに近い東方の地」を意味するわけですから、「近江」遷都がこの時点「以前」に行なわれたことを強く示唆するものであり、「海東諸国記」の言う「六六一年遷都」という考え方の方が正しいことを意味するものでしょう。
 逆に言うとそれ以前はかなり「半島」に近い地域(たとえば「九州」)に「都域」があったことを示唆しているようです。
 ところで、この「日夲」を「日本」のことではなく「百済」のこととする説があります。それによれば「風谷」と対比するように書かれており、その「風谷」が国名ではないのだから、「日本」も同様であるとされています。(東野氏の説)
 しかし本来対句としては中国の古典では「太原」と「風谷」という使用例や「雲谿」と「風谷」というような組み合わせがあるものの、「日本」と「風谷」というものは確認できません。これらはいずれも「都」を遠く離れた場所であり、姿をくらますには絶好の場所と考えられていた場所を抽象的に示すものと思われますが、この「百済禰軍墓誌」の場合は、「唐」「新羅」の軍から逃れているという意味合いから「風谷」が使用されていると思われます。そのことは同様に「日本」の意義もそこにあったことは間違いないと思われることとなりますが、それが「太原」でも「雲谿」でもないのは、そこが「扶桑」の地であった為であり、「倭国王権」が「扶桑」に「拠点」を持っていたがために「日本」という国名と意味上合致したことがここに「太原」「雲谿」に代わり「日本」が使用されることとなった所以であると思われます。
 つまり、ここに「日本」という名称が使用されるのは現実を反映しているものであり、非常に似つかわしいものであったと言えるでしょう。

 さらにそれに引き続き、「萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。」という文章が続きますが、この部分は、「萬騎」と「千艘」、「與」と「援」、「蓋馬」と「原虵」、「驚塵」と「縦濔」というように全てが見事な対句構成の「四六駢儷文」となっています。
 ここでは「萬の騎が野に亘り」と「千の船が波に横たわり」とが対応していると考えられ、また「蓋馬」が「蓋馬山」や「蓋馬高原」という土地の名前に関連していると考えられ、これが「高句麗の地」(朝鮮半島北部の高原地帯)を指すものと考えられることから、その前の「萬騎」が「亘った」という「野」もまた「高句麗の地」を指すと考えられます。
 そして、下の句の「千艘」以下「萬」と対語仕立てにしているものの「実質」としての数字という含みもあると思われ、『三国史記』に「倭船」が「千艘」いたと書かれた「白村江の戦い」を想起させるものであり、「百済」の地での出来事をさすと考えられるものです。
 つまり、ここでは総じて「半島」の出来事について書いていると思われるものです。

 ところで、ここまでの文章の流れは『書紀』や『旧唐書』に書かれている事と少し違うと思われます。
 『書紀』や『旧唐書』などでは、「六六〇年」の戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われ、「倭国」は参加していないと見られるのに対して、この「墓誌」の文章では「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
 このことは「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。
 つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。
 この文章では「百済」が滅ぼされ、「王」などが「百済」に連行された時点を以て「于時」という表現がされてその次ぎの「日夲餘噍 拠扶桑以逋誅 風谷遺甿 負盤桃而阻/固」という文章につながりますから、「倭国」(日本)は「百済滅亡」という段階で既に「列島」の奥に立て籠もった状態となっていたらしいことが窺えます。(時系列としてはその間に「空き」がないように思えます。)

 「墓誌」では、さらに「以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰。」という文章につながります。この中の「亀鏡」というのは、ものごとの善悪を図る基準になるものを言い、後代の日本の資料である『日本後紀』においても『続日本紀』編纂に関する「菅野朝臣真道」の上表文中にも出てきます。

「『日本後紀』巻五 延暦十六年(七九七年)二月己巳(十三日)条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰『續日本紀』。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之『龜鏡』。炳戒昭簡。作千祀之指南。…」

 「海左」とは「天子」を基準とした表現であり、南面する天子からみて左側は「東」ですから、「海左」は「海東」を指す表現であり、「半島」及び「倭国」を示す意義があります。また、「瀛東」とは広い海の東のことの意から、同様に「半島」ないしは「倭国」を意味するものと思われます。
 また、「往尸」は「死体」のことを意味するとも考えられますが、「逃亡者」という意味合いもあります。「特在」は「特にある」ないしは「特に置く」という意味で現代の表現と余り変わりません。また「簡(門構えの中が月)帝」とは本来、「簡」が「選ぶ」という意味と考えられることから、「簡帝」とは「選ばれた」「帝」を指す言葉であり、ここでは後に出てくる「僭帝」と対比的に使用されている事と併せ、「百済義慈王」に代わって「唐」から任命された「百済王」である「太子隆」を意味するのではないかと思われます。(以下「簡帝」の実例)

「藝文類聚/第四十六卷 職官部二/太傅」より

「…(北)周王褒太傅燕文公于謹碑銘曰.古者六等官人.師傅崇其匡輔.一命作牧.侯伯其專征.南仲成薄伐之功.吉甫作來歸之頌.若乃仰?宸曜.上屬台階.錫之以彝器.明之以車服.除名盛業.太傅燕國公其有焉.西曄開其命緒.東海傳其世祿.父曾致平法之科.廷尉稱無?之頌.駟馬方駕.高門繼軌.公稟山岳之上靈.含風雲之秀氣.雕良玉於廉?.?貞金於??.于時王業締搆.國?權輿.太祖地雖二分.功猶再駕.忠誠『簡帝』.有志興王.公運策帷帳.參謀幕府.封齊定文成之計.間楚資曲逆之奇.仲華訪輿地之圖.林叔參兵車之右.…」

 他の例も同様であり、「選ばれた」あるいは「正式な」「帝」を指す言葉です。
 また「招慰」とは一般には「帰順する」(させる)という意味があります。『常陸国風土記』にも以下のような用例が確認できます。

 「茨城郡東香島郡 南佐我流海 西筑波山 北那珂郡 古老曰 昔在国巣俗語都知久母又云夜都賀波岐山之佐伯 野之佐伯 普置堀土窟 常居穴 有人来 則入窟而竄之 其人去 更出郊以遊之 狼性梟情 鼠窺掠盗 無被『招慰』 弥阻風俗也…」

 ここでは、「国巣」とも「佐伯」ともいわれる者達を「帰順」させることが困難であることをいう中で「招慰」が使用されています。
 そもそも「招慰」には「政府の政策として、化外人および賊を封象として行うもの」という性格があり、それまでの支配領域外にあった地域や、反乱などによって支配から離脱した地域や民族などを、「自王朝」(ここでは「唐」)の郡県制に組み入れる行為を指すものとされています。そしてそれは、地方官(都督など)などの個人的な判断に基づくものではなく、政府の政策による(あるいは皇帝の命による)行為というものであることが重要でしょう。
 その意味でも「簡帝」による「招慰」という行為は「唐」という国家の意思を反映したものであり、それは「簡帝」が「唐」によって選定された人物であることを推定させるものであり、その意味からも「扶余隆」という存在につながるといえるものです。
 この「墓誌」の場合は「往尸」とありますから、「逃亡した人達」に対するものを意味すると思われ、反乱者達(鬼室福信達など)を帰順させるよう説得などを行なっていたと理解できるものです。
 以上を含んで考えると、大略は以下の通りと思われます。

 「『公』(百済禰軍)は高位の官(ここでは「行軍総管」である「蘇定方」か)の計画により海を越え「半島」(「百済」か)にやって来て、彼等に物事の基準となることを示しました。そして「新百済王」となった「太子隆」が反乱者に同調する人達に対して帰順を呼びかけていました。」

 また、③については大変難解ですが、この部分は冒頭が「公」(禰軍)と「皇帝」の間の関係を書いたものであり、「公侚臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳」という部分は「公」つまり「百済禰軍」が「臣」としての「節」を「命」を投げ出しても達成する、という事を「詩経」の「載馳」になぞらえて「皇華」(皇帝)に「歌」ったという事を意味すると考えられますが、ここでいう「載馳」は「亡国の嘆き」を歌った歌であり、「詩経」にあるものです。この部分は「祖国」である「百済」を亡くした「百済禰軍」が今後は「唐」皇帝の臣下として命を投げ出す覚悟を示したものと推察されるものです。
 そして、上の文章に以下の文章が続きます。

「汎海之蒼鷹/翥凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」

 これらの文章は「蒼鷹」「赤雀」が「天命」を知らせるという故事を踏まえ、自分も「天命」(この場合「勅命」)を帯びて「直ぐに」(時間を掛けずに)来たという事を意味していると考えられ、さらに「説暢」(「説得」或いは「威嚇」)して、「投降させた」と言うことを書いていると考えられます。この「説暢」とは「告諭」や「宣諭」とほぼ同様の意義を持った用語であり、「魏」の時代の「倭国」へ派遣された「張政」や「隋」の時「倭国」に派遣された「裴世清」がそうであったように、「戦乱」あるいは「不穏」な情勢を鎮めるために派遣されたものであり、その中では「唐」の大義名分を認めるように「説得」したものです。
 また、ここでは「禍福千秋」という言葉を用いていますが、同様な説得は「唐」と「吐蕃」(トルファン)との間に起きた争いの際にも行われています。

「(儀鳳三年九月丙寅)…李敬玄之西征也,監察御史原武婁師德應猛士詔從軍,及敗,敕師德收集散亡,軍乃復振。因命使于吐蕃,吐蕃將論贊婆迎之赤嶺。『師德宣導上意,諭以禍福,』贊婆甚悅,爲之數年不犯邊。師德遷殿中侍御史,充河源軍司馬,兼知營田事。…」

 ここでも「宣導上意」とされ、「唐皇帝」の意思と大義名分を伝え、それに従うように説得したものと見られ「禍福」を以て諭したとされます。
 この部分はそれ以前に既に「百済義慈王」に対する説得などが終わり彼らを「皇帝」の面前に連行したとする意と受け取れますので、この部分は必然的にそれ以前のこととならざるを得ません。つまり、この部分は「倭国」に対する説得などが「禰軍」の功績として書かれていると思われるわけです。
 
 ところで、「古代に真実を求めて」に掲載された「水野氏」の論考(特に「海賦」との関連)によれば上の部分は「海賦」の詩文を縮約して引用しているとされます。
 「海賦」とは「三世紀」の西晋の「木華」の作と云われ、「古田氏」も言うように倭国に関するものがその中に重要な意味を持って書かれているとされています。このことから、その一節を引用しているとすると「日夲」というものが「倭国」との関連で書かれていると判断するのが正しいといえそうです。
 「海賦」の中には「鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,不終朝而濟所屆。」という部分があり、これは「卑弥呼」が「魏」(「帯方郡治」)に応援を頼み、それに応じて「張政」が来倭して戦闘を停止させたということを詠ったものと思われますが、この「墓誌」では当該部分を「縮約」して引用しているものとみられ、「百済禰軍」の行動についても、その派遣された先が「倭国」であること、またその拠点も同様に半島内にある(「張政」の場合は「帯方郡治」から)ことを示すものと思われ、「熊津都督府」から派遣されたものであるということが推定できると思われます。
 但し「海賦」の「不終朝而濟所屆」の部分は「水野氏」が指摘するように「朝」から「夕」に変えられ「驚鳧失侶 済不終夕」となっており、この「不終朝」という部分が古田氏により「朝飯前の意」とされたように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われるわけですから、それが「不終夕」に変えられているのはそれよりは長くかかった意を表すものではないかと考えられ、問題解決がそれほど簡単ではなかったこと、少なくともその期間として数ヶ月の時間経過があったことが想定されるものです。それは「海外国記」などでも「百済禰軍」が来倭してから帰国まで数ヶ月かかっているように見えることとつながるものと思われます。(六六四年記事と六六五年記事が実は同年とすると五月から十二月までかかっていることとなりますし、別の年次とすると足かけ二年かかっていることとなり、いずれにしろ長期間の交渉であったこととなります)


(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2016/08/21)