ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):「唐」・「新羅」との戦いについて:百済禰軍墓誌について:

禰軍墓誌と劉徳高の来倭


 「百済禰軍」の墓誌について考察しています。
 ③の中の「説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」というような部分は『旧唐書』の「百済伝」や「劉仁軌伝」に於いても、「警告と威嚇」の為の文言として使用されています。

「旧唐書東夷伝百済の条」「…司農丞相里玄奨齋書告諭兩蕃、『示以禍福』。」

「旧唐書列伝劉仁軌の条」「…新羅兵士以糧盡引還、時龍朔元年三月也。於是道[扁王旁右深]自稱領軍將軍、福信自稱霜岑將軍、招誘叛亡、其勢益張。使告仁軌曰 聞大唐與新羅約誓、百済無問老少、一切殺之、然後以國付新羅。與其受死、豈若戰亡、順以聚結自固守耳 仁軌作書、『具陳禍福、遣使諭之』。…」

 この時「禰軍」達一行は「郭務悰」を首領としていたと思われますが、実際には彼らには「勅命」は出ていなかったものと思われ、「勅命」を受けて来倭したのは実際には「劉徳高」であり、「百済禰軍」等ではなかったと思われます。
 「百済禰軍」と「郭務悰」は「勅命」を帯びた「劉徳高」とは別に「熊津都督府」から「鎮将」であるところの「劉仁願」の意を受けて「対馬」に来ていたものであり、そこから入国できていなかったものです。
 彼等は「唐皇帝」の命令を示す文書を提示できず、そこから先に進めなかったものであり、本格的な「告喩」や「宣喩」というような「招慰」という行為が行えなかったものです。それ以上のこと(軍事侵攻など)は皇帝や行軍総管の命令がなくては実行できませんから、せいぜい「威嚇」だけしか行えず結果的に時間ばかりがかかる事となったものと思われます。そこに「勅使」である「劉徳高」が合流したものと見られます。
 『天智紀』の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務悰」等が来倭したことが記されています。

「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務悰等 進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務悰等敕
是日 中臣?臣遣沙門智祥 賜物於郭務悰。
戊寅 饗賜郭務悰等」

 この時の来倭記事とおぼしきものが『書紀』及び『善隣国宝記』に引用する『海外国記』に出ています。しかもこの件に関しては(『善隣国宝記』に引用された)『海外国記』の情報の方が詳しいようです。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 これによればこの時の「倭国」は「表」(つまり「皇帝からの国書」)の有無を問いただし、将軍からの「牒書」だけであることを確認すると、この使者を「唐皇帝」の使者ではないとして「門前払い」したとされています。この時「郭務悰」達を「門前払い」したとする推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
 
 つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。この「高宗」の派遣した使者というのが「劉徳高」(及び「天智末年」に「薩夜麻」を伴って来倭した「郭務悰」)を指すと思われ、「高宗」の勅使ではなかった「六六四年」の際の「郭務悰」では決してあり得ず、彼はこの時「倭国王」には面会できなかったことがここからも判ります。
 また彼「趙良弼」は「国書」を「大宰府」で提出するのを拒んでいますが、それは「国書」は直接日本国王へ提出すべきものだからです。途中で「代理者」などに開陳することなど出来ない性質のものなのです。そう考えると以下のように「劉徳高」が「筑紫」で「表函」を提出したと書かれているのは重要でしょう。
 (「劉徳高」の来倭に関する記事をまとめて並べると以下のようになります。)

「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務悰)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。

 これを見ると「対馬」に到着後二ヶ月弱で「筑紫」への上陸が赦され、その「筑紫」に到着した二日後に「表函」つまり国書の入った「函」を提出しています。これは「趙良弼」の言葉に従えば「倭国王」に面会したと言う事を示すものであり、この段階で「筑紫」には「倭国王」がいたこととならざるを得ません。
 そう考えると、「薩夜麻」が出征した後、倭国内では政変が起き、新たな「倭国王」が即位していた事が示唆されます。それが後に「天智」に擬されることとなった人物であると思われるわけであり、当時「筑紫」に居を構え国内外の情勢に対応していたことが窺えるものです。


(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2017/01/06)