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「唐人の計」と「格謀」


 「墓誌」では、「以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰。」という文章がありますが、そこに「格謨」とあります。 「謨」は「謀」とほぼ同義とされますから、いわゆる「計画」であり「はかりごと」です。
 ただし、現在の「皇帝」の立てた計画という意味はないと考えられます。その場合は「聖謨」と言うようです。
 (以下「聖謨」の例)

「「舊唐書/本紀 卷一 本紀第一/高祖 李淵」
「(貞観)九年五月庚子…
史臣曰:有隋季年,皇圖板蕩,荒主?燎原之?,羣盜發逐鹿之機,殄暴無厭,流靡救。高祖審獨夫之運去,知新主之勃興,密運雄圖,未伸龍躍。而屈己求可汗之援,卑辭答李密之書,決神機而速若疾雷,驅豪傑而從如偃草。?謳謠允屬,揖讓受終,刑名大?于煩苛,爵位不踰於?軸。由是攫金有恥,伏莽知非,人懷漢道之ェ平,不責高皇之慢罵。然而優柔失斷,浸潤得行,誅文靜則議法不從,酬裴寂則曲恩太過。姦佞由之貝錦,嬖幸得以? 蜂。獻公遂間於申生,小白寧懷於召忽。一旦兵交愛子,矢集申孫。匈奴尋犯於便橋,京邑咸憂於左袵。不有聖子,王業殆哉!
贊曰:高皇創圖,勢若摧枯。國運神武,家難『聖謨』。言生牀第,禍切肌膚。鴟?之詠, 無損於吾。」

 推定すると「格謨」とは「現皇帝」という程高位ではないもののかなりの地位にある人物が立てた計画ないしは計略のことをさすと考えられます。
 「晋書」では「燕」の王朝のこととして『「前皇帝」が「質素」を旨としていたのにあなたは華美で浪費している』という部下の諫言中に「先王格謨、去華敦僕、哲後恆憲」という表現がされています。
 これによればやはり「格謨」とは、「先王」の建てた「統治の方針」であり、また「姿勢」ともいうべきものでもあるようであり、「現皇帝」に関するものではないことがわかります。そのことから考えると、「百済禰軍墓誌」の場合は「禰軍」の上司であった「熊津都督」あるいは「行軍総管」が立てた計画を指すのではないかと推測できるでしょう。
 これに関しては「大伴部博麻」への詔の中に出てくる「唐人の計」という表現との関連が注目されます。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞『唐人所計』。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 従来これについては「不明」とされていますが、唯一「正木氏」により「泰山封禅の儀」を指すという研究があります。
 しかし、この「詔」によれば、「薩夜麻達」はこの「唐人の計」を「本朝」に「是非」伝えようとして、その方法に苦慮した結果、「大伴部博麻」が「身を売る」ということとなったとされるぐらいですから、「国家危急」の事態が想定する必要があると思われます。
 このような緊急的な事項としては、彼等が「補囚」となっているという状況も含めて考えると、「軍事」に関わること以外のことは想定しがたいものです。そのような「危機的」状況であれば、これに対する処置等を「至急」「本国」(筑紫)に指示・伝達する必要があったとするのは当然であり、そのためのメッセンジャー役として「土師連富杼」たちが選ばれたと理解できます。

 「熊津都督府」の「鎮将」(占領軍司令官のようなものか)として存在していた「劉仁願」は、後に「流罪」となるなど、不審な行動があったようです。「劉仁願」に何らかの個人的な軍事的野心があり、それを実行に移そうとしていたとも考えられ、「補囚」の身ではあったものの、このような「劉仁願」の野心とその計画を知ることの出来た「薩夜麻」達は「郭務そう」と「百済禰軍」について、「熊津都督」の「私者」「私蝶」であるとして拒否するようにという内容を「本国」に伝えようとしたと思われます。ここで「薩夜麻」達にそのような策動を知ることが出来たであろうことを推定しているのは、彼らがそれほど強力な監視ないしは拘束を受けていなかったと見られることと関係しています。
 彼らはかなり自由に行動が可能であったと思われ、(それは「大伴部博麻」が自らの身を売って金に換えたり、その金で「富杼」達が帰国できたという『持統紀』の記事からも推察できますが)それは情報収集についても同様であったという可能性を考えさせるものです。

 ところで、ここで言われている「唐人」の「計」つまり「格謨」について、「薩夜麻」達はこの「格謨」について何らかの情報を入手したものと考えられます。これはそのまま彼らが「どこ」にいたかということの推定にもつながるものです。この「格謨」が「現地司令官」クラスのアイデアを示すのであるならば、「薩夜麻」達がその内容を漏れ聞くことも可能かも知れませんが、「唐王朝」が関与しているあるいは「禰軍」が直接「長安」から派遣されたとすると、彼らには全くその内容を知ることは出来なかったでしょう。それは「唐人」という言い方にも現れているようです。「唐」の「皇帝」を「唐人」とは称しないだろうと推定出来れば、もっと位の低い人物の立てた計画というものが「唐人の計」の実態であり、それは即座に「格謨」という言葉に直結するものであり、立案したのは「熊津都督府」に陣取っていた「劉仁願」であった可能性が高いこととなります。
 彼が何らかのプランを建てその実行部隊として「郭務そう」と「百済禰軍」が送り込まれたのではないでしょうか。そう考えると「唐人の計」とは「泰山封禅」ではないことが理解できるでしょう。なぜなら「泰山封禅」は「唐」の「高宗」が「長安」で企図したことであり、「劉仁願」の建てた計画ではないからです。


(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2016/08/21)