『海外国記』の「百済禰軍」の肩書きは「佐平」であり、これは「百済」の官制による肩書きですが、翌年の『書紀』の記事によれば「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」となっています。これは「唐制」による肩書きに変わっているわけです。
実際には彼が「百済」が滅ぼされる前には「佐平」であったと思われますが、「唐」に投降した時点以降「官奴婢」として扱われていたものの、その後「右武衛滻川府折沖都尉」という称号を授けられたものであり、良民として資格を回復したもののようです。それは「百済王」達の抵抗に対して、説得させ投降させる役目を負わされたことと関係していると思われ、狙い通り「義慈王」達を投降させた功で昇進した結果「左戎衛郎将」となったとみられ、「熊津」を占領する立場になった時点以降「右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。」となったとされます。しかし(当然)この時点ではまだ「上柱国」ではなかったとみられ、両記事とも「墓誌」とは異なることとなっています。(後日の記録でありリアルタイムのものではない可能性があると思われます)
ところで「百済禰軍」は「百済」にいた際に「佐平」というかなり位の高い役職(将軍)の一人であったものであり、その「百済」と「倭国」はこの戦いのかなり以前から「共同」ないしは「連合」して事に当たっていたと考えられます。つまり、「百済禰軍」は倭国の官僚の少なくとも一部とは「顔見知り」であり「百済」国内での「知日派」であったという可能性もあるでしょう。彼が「交渉」の窓口となっていたように見えるのは、彼には「交渉」の「チャネル」があったからではないでしょうか。しかも彼は「日本語」が話せたという可能性があります。
「唐」は外交交渉を諸外国と行う際に、原則として「漢語」(唐語)を使用していましたが、例外的に、その国の言語が出来る「通事」(「通訳」と「外交交渉」を兼ねて出来る人物)を派遣する場合がありました。
たとえば、「冊府元亀巻一〇〇〇外臣部『讐怨』」には「貞観中、太宗遣折衝都尉、直中書訳語揖坦然乞使西域」とあり、「折衝都尉兼中書訳語」という役職の人物を西域に派遣した記録があります。
交渉が「クリチカル」なものであればあるほど「通訳」の役割は重要であり、「漢語」で不十分と思えば、その土地の言葉を話せるものを「通事」として起用するのが「唐」の外交交渉のテクニックであったと考えられ、であればこの「百済戦」の後の戦争の後始末とでも言うべき、和平交渉において「倭国」の言葉を理解し話せる人間をあつらえなかったとすると「不審」と言うべきでしょう。つまり「百済禰軍」の役割はまさに「西域」に派遣された「揖坦然乞」と同じであると推察されるものです。
こう考えると「百済禰軍」は交渉の最前線で「日本語」を駆使して、説得と恫喝という硬軟を併せて交渉したものと理解されます。この事が「倭国側」の理解を助け、交渉が「決裂」するような最悪の事態を回避することが出来た理由のひとつではないでしょうか。
「劉徳高」は「唐皇帝」(高宗)の「勅使」であったと思われ、「泰山封禅」の開催通知と招請を主たる目的として来倭したものと思われますが、そのためには「降伏」と「謝罪」が必須の前提であったものであり、そのため「倭国」側は、その対応を巡って紛糾したものと考えられますが、結局はこれを受け入れ「公式」な「謝罪」とそれなりのペナルティーを受け入れることとなったものと推量されます。
その「ペナルティー」とは「捕囚」の身である「薩夜麻」に対して「泰山封膳」に参加するため連行するというものであり、「唐皇帝」に対し直接「謝罪」すべきとされたものと思われます。
更に「薩夜麻」については「泰山封禅」に参列した後「三千里の外に二年間」の「流罪」処分となり、その間「熊津都督府」に留置されることとなったと思われ、そのため「泰山封禅」が終ってもすぐには帰国できなかったものと考えられます。ただし、「三千里」の外と云っても、実際には「熊津都督府」に軟禁されていたと考えられ、これはまだしも待遇としては良かったと思われます。(熊津都督府は確かに「唐」の都「長安」からは「三千里の外」にあります)
ちなみに、この「流罪」という「罪」の中身については「唐令」の規定が失われているため、場所の起点がどこか問題となっていたようです。これについては『養老令』では流刑の起点を「京師」からとしているものの(『令義解』による)、それが「唐令」そのままであったかは不明であったものです。しかし、この「薩夜麻」の一件が「三千里の外の流罪」(二年間の強制労働が付加される)であったと理解するとし、間違いなく『養老令』と同様「京師」(この場合「洛陽」)を起点としていることとなるでしょう。
この「謝罪」と「降伏」という内実がおこなわれたのは、彼が「劉仁軌」により引率され「泰山」の麓の港まで連行された時点であり、「泰山封禅」の直前(六六五年末)に行なわれたと思われますが、そこから「二年間」を数えると「六六七年」になります。そして翌「六六八年」(乾封三年)の三月に「明堂」についてその内容が決定されたことを「慶賀」し、「大赦」が行われ「改元」したとされます。
「資治通鑑巻二〇一」「總章元年(戊辰、六六八年)朝廷議明堂制度略定,三月庚寅 赦天下改元。」
この段階で「流罪」であった「薩夜麻」も解放され、その年のうちに帰国したと見ることができそうです。そう考えると『書紀』の記事は「三年」ほどずれていることが推定できます。「薩夜麻」は「郭務宋」と同行して帰国していますが、この記事は「唐」側資料には存在しません。「帰国」の年次としての「六七〇年」というものが「絶対」的事実として保証されているというわけではないのです。
少なくとも「六七一年」に記載されている「劉仁願」が派遣したという「熊津都督府」からの使者の記事については、それ以前(六六八年)にすでに「劉仁願」が「唐皇帝」から「査問」を受け「流罪」となったという「唐側資料」とは「矛盾」しています。
「資治通鑑巻二〇一」「總章元年(戊辰、六六八年)八月辛酉,卑列道行軍總管右威衞將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。」
つまり先に「大赦」があり「改元」された後の八月に「劉仁願」は「対高麗戦」への出陣指令に従わなかったという罪で「死罪」に問われるところ一等罪を減じて「流罪」となったとされます。このことから、彼については「恩赦」の適用後に発生した事案であり、「六七一年」段階で「熊津都督府」で采配を振るっていたとは考えられないこととなります。
この「来倭」記事が、実際は「劉仁願」が「流罪」になる前の記事であるとすると、少なくとも「三年」のズレがあると思われ、同じ「六七一年」に帰国したとされる「薩夜麻」の記事についても「三年」遡上する可能性が考えられ、そうであるとすると「六六八年」に年次が移動することとなり、彼が解放されたとみられる「六六八年」と同年となって整合します。つまり「郭務悰」達に護衛されて「薩夜麻」が帰国したのは「六六八年」のことであり、彼はすぐに「筑紫の君」つまり「倭国王」としての地位を回復したと見られ、すでに彼の不在中に「近江朝廷」を開いていた「天智」と対立することとなったものと思われるわけです。
(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2015/04/25)