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「僭帝」について


 百済禰軍墓誌の中に出てくる「僭帝」については各種議論があるようであり、私は以前「天智」を指すものと考えていたものですが、以下の点を慎重に考察した結果、「百済義慈王」を指すと言うことに見解を変更しました。

 (「僭帝」表記の当該部分)
「公q臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/?凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 『僭帝』一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。」

 これを見てみると、そこに「首望」とありますが、これは「酋望」に同じであり、蛮族の有力者の意であると思われます。つまり、「僭帝」は「臣」を称し(この「一旦称臣」とは「捕虜」あるいは「奴隷」になるという古典的な言い方のようです)、配下の将軍達数十名を「将」して(これは「率いて」と理解すべきでしょう)、つまり、将軍達を連れて共に「皇帝」の元に「入朝」し「謁」したとされており、これは「僭帝」自ら「皇帝」に「直接」面会したという意味と考えられます。そして「皇帝」は特に恩を以てこれに答えたというわけです。
 この部分は明らかに「百済」の降伏の際のことと考えられ、「百済王」は「唐」から冠位を授与されていたのですから本来「僭帝」つまり、「百済国王」を勝手に名乗ったという訳ではなさそうではあるものの、後に「唐」と「新羅」の間で争いとなったときには「新羅」の「文武王」は「唐」から与えられた官職や名称などを剥奪されているということを考慮すると、この時の「百済義慈王」も「唐」から同様の扱いをされていたという可能性があります。そして「義慈王」がそれ以降も「百済王」を自称している場合それは「僭帝」となると言う論理と思われ(そうでなければ「唐皇帝」は「部下」と戦うこととなってしまいます)、この戦いの時点ではすでに「唐王朝」からは「百済王」としては認められていなかった可能性が高いと思料します。

 さらに『旧唐書百済伝』を見ると「義慈王」の降伏により「高宗」の前に連行される描写では「偽将」等が五十八人いたとされます。

「顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、『偽將』五十八人等送於京師,上責而宥之。其國舊分爲五部、統郡三十七、城二百、戸七十六萬。至是乃以其地分置熊津、馬韓、東明等五都督府、各統州縣、立其酋渠爲都督、刺史及縣令。命右衛郎將王文度爲熊津都督、總兵以鎭之。義慈事親以孝行聞、友于兄弟、時人號(海東曾、閔)。及至京,數日而卒。贈金紫光禄大夫、衛尉卿、特許其舊臣赴哭。送就孫皓、陳叔寳墓側葬之、并爲豎碑。」

 ここに言う「偽将」は「大義名分」のない人物や勢力の配下の将軍を指す用語と思われますから(例えば「南朝(陳)の差し向けた将軍などを「偽将」とした例など多数が『隋書』『旧唐書』などにあります)、これは「僭帝」配下の存在であることを推察させるものですし、五十八人という数も「墓誌」に言う「数十人」という人数とも整合するようです。

 また、『旧唐書』では(『新唐書』も同様)その後「倭国」から「扶余豊」を迎えて「鬼室福信」など「百済」の残党が終結して「唐」「新羅」に対抗して戦った「白村江の戦い」の描写では、「偽王子」という呼称が使用されています。

「新唐書劉仁軌伝」「…於是仁師、仁願及法敏帥陸軍以進,仁軌與杜爽、扶余隆?熊津白江會之。遇倭人白江口,四戰皆克,焚四百艘,海水為丹。扶余豐?身走,獲其寶劍。『偽王子』扶余忠勝、忠誌等率其?與倭人降,獨酋帥遲受信據任存城未下。…」

 ここでは「義慈王」の子供達を「偽王子」と呼称しています。これらのことは彼等の父王である「義慈王」が「僭帝」とされていたと見たとき整合するものといえるでしょう。

 また「墓誌」では「百済禰軍」は投降後「…授右/武衛熊川府折沖都尉」とされたとしていますが、熊津都督に関係する役職はこの「僭帝」が投降した後にその功績により「授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬」とされており、当初は「熊津都督府」に関係するものには付いていませんが、それは「都督府」自体が「義慈王降伏」以前には設置されていなかった(当然ですが)ものであることと関係しているでしょう。つまり当初の「百済禰軍」の投降は「義慈王」の投降と一緒に行われたものではなく、それ以前に行われたものであると考えられるわけです。(「薩夜麻」と同じく「白村江の戦い」以前の「百済を救う役」における戦闘の際の出来事と理解できます)
 つまり「義慈王」の投降と「僭帝」への折衝とが同じタイミングであると推定されるわけですから、「僭帝」とは「義慈王」を指すという傍証といえるものでしょう。

 また、それは「簡帝」を「太子驕vとしたこととも関係していると思えます。同じ文脈中に「簡帝」と「僭帝」が出てくるのであれば、それは共に同じ国の中のことと考えるべきではないかと考えられ、「簡帝」を「百済」に関係したものとした場合「僭帝」も同様に「百済」に関係していると考えざるを得ないと思われるのです。
 これらのことから、現在の見解としては、「僭帝」とは「義慈王」を指すと理解しています。


(この項の作成日 2012/02/07、最終更新 2017/01/15)