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「百済を救う役」の際の発進基地について


 ところで、「白村江の戦い」は大量の船同士による「海戦」でした。双方数百隻、という大軍同士が「海戦」を行ったわけですが、この戦いの主体となったのが「海人族」であるのは言うまでもないでしょう。「阿曇族」や「宗像族」などがその最前線で戦ったものと思われます。この時の「水軍」の「基地」はどこであったものでしょう。

 『書紀』の「三十四年遡及問題」の発端となった『書紀』中に頻出する「持統天皇の吉野行幸」は実際には「斉明天皇」の時代の事であると考えられており、その「吉野」への行幸が「白村江の戦い」後、全く行なわれなくなる、ということから考えて、この時の「吉野行幸」がこの「白村江の戦い」に深く関係していると推察されるものです。このことから、この行幸は「船団」が集結していた場所へのものであったと推定され、「吉野」には「軍事基地」があったものと推察されるものですが、そのような性格を持つ基地として「奈良の吉野」は全く不適格であると考えられます。
 そう考える理由の一つは、「戦場」からの「距離」です。このような戦いの際の軍事基地としては、その戦いが行なわれる最前線から余り遠く離れては「危急」の際に間に合いませんし、かといって「最前線」のまっただ中では場合によっては「戦線」の悪化によっては至急「移動」の必要も出てくるものですから、「最前線」から「一歩」下がった位置が「物資」「武器」補給の基地としては最適と考えられるものです。
 そういう意味では「九州」のどこかに「基地」が作られて当然と考えられ、「吉野」行幸という『書紀』の記事からも同じ「吉野」地名のどこかに基地があったものと推察されるものです。そうすると「有力」なものは「佐賀」の「吉野ヶ里」ではないでしょうか。この場所は「天然の良港」であり、「玄界灘」に面しておらず、敵からの攻撃に際しても直撃を避けられる位置にあるなど利点があります。この「吉野ヶ里」に「前線基地」を構築し、「船舶製造」と「軍事訓練」を行いつつ、戦闘準備に励んでいたものでしょう。
 つまり、『書紀』の「吉野行幸」記事は、「吉野ヶ里」への移動であったと考えられ、水軍の閲兵と船の建造の進捗を観閲しに行っていたと考えられます。
 そして、それは「持統天皇」でも「斉明天皇」でもなく、「筑紫君」であった「薩夜麻」が行なったことと考えられ、彼は「伊勢王」と「弟王」の死去後、すぐに「対唐」「対新羅」戦を想定して、その準備を整え始めたものと考えられます。それが「吉野」行きに表れているのでしょう。
 またそれは、彼「薩夜麻」が「筑紫の君」であったことと関係しています。この場所は現在は「佐賀県」に属していますが、当時は「筑後」の領域内にあったものであり、その「筑後」は「筑紫の君」の支配地域なのですから、「吉野」に基地があるとすればそれを統括しているのは「薩夜麻」以外には該当する存在が見あたりません。この事からも「派遣」された「倭国軍」が「薩夜麻」の指揮下にあったことは明確と思われます。

 また、後述しますが、この「筑後吉野」には「古代官道」も敷設されていたものであり、これは当初から「軍用道路」として設計施工されたものですから、この時の戦いに使用されなかったとは考えられません。この「官道」は「筑紫宮殿」(太宰府政庁)に直結していたものであり、大量の軍隊の移動や、それに対する「指揮」などの行動(移動)も速やかに行えるようになっていたものです。(「奈良吉野」には「官道」が通っていなかったと考えられますから、この点でも軍事基地としては失格であると思われます)
 
 また、この「白村江の戦い」に参加した船には一艘当たり数十人から百人くらい乗り込んでいたかと思われますが、これで計算しても総計数百隻以上になると思われます。(『旧唐書』によれば「四百隻」、新羅文武王の報告によれば「千隻」と書かれており、実数は明らかではありませんが、非常に多量の船が戦闘に参加しているようです。)
 これらの船を造るのに使用された材料もほぼ「九州」で得られたものと思料します。これらの船の主要な材料である「樟」は関東以南に自生していますが、特に「九州地方」が主要な産地であり、漢字で「樟」ないしは「楠」と書きますが、「樟」は中国流の表記なのに対して、「楠」は日本で考えられた漢字であり、この漢字の意味は「九州地方の木」という意味なのです。(読みも「クスノキ」ですが、これは「九州の木」の意と思われます)

 ちなみに、このような「和製漢字」は「天武朝」に造られていたものと考えられ、『書紀』に以下のように出てきます。

(天武)十一年(六八二年)(中略)丙午。命境部連石積等更肇俾造新字一部卅四卷。」

 この記事が「年次移動(遡上)」対象記事なのかは明確ではありませんが、そう考えても不思議ではありません。それはその内容が「中央集権的」であると言えるからです。「文字」を「造る」「決める」などの事業は明らかに「強い権力者」であることを示唆するものであり、それは「難波朝」の「倭国王」の所業にこそふさわしいと考えられるものです。
 また、ここに書かれた「新字一部卅四卷」はその内容は現在に全く伝わっていませんが、かなりの数の「和製漢字」が現在も存在しており、それらの一部はこの記事につながるものかなりあるものと推量します。
 上に出た「楠」については『続日本紀』の「元明紀」に使用例が確認され、「八世紀」の半ばには「公的」な文書等でも既に使用されていたことが分かります。

「(和銅)四年(七一一年)春正月丁未。始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡『楠葉』驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛。」
 
 このように「楠」という表記が「八世紀」に入ってすぐの段階で確認されるためには、それに先行して「船材料」としての「九州」由来の「実物」が周知されることが必要なわけですから、この表記例を遡るかなり早い時期に「船材料」として大量に使用された実績があったことが必須となると考えられ、そのような中にこの「海戦」のための造船というものもあったものと推察されるものです。


(この項の作成日 2011/07/27、最終更新 2013/08/16)