ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:難波遷都と四天王寺:

「難波」遷都と「四天王寺」(2)


 「仁徳紀」に以下の記事があります。

「十一年夏四月戊寅朔甲午。詔羣臣曰。今朕視是國者。郊澤曠遠。而田圃少乏。且河水横逝以流末不■。聊逢霖雨。海潮逆上而巷里乘船。道路亦泥。故群臣共視之。決横源而通海。塞逆流以全田宅。
冬十月。掘宮北之郊原。引南水以入西海。因以號其水曰堀江。」

 この記事からは、難波の地が「満潮時」などになると「川」を海水が逆流し、街の中を船が行くような状態となってしまう事を記したものと考えられます。当然道路は泥だらけであり、「田畑」も満足な収穫が得られないこととなっていたものと思われますが、この様な状態は先に見た「四天王寺」が移築せざるを得なくなった際の描写に非常によく似ています。
 このようにかたや「海潮逆上」といい、かたや「逆浪あふれ」という事ですから、この描写は全くといっていいほど同じような状態を示すと考えられますが、「仁徳紀」によれば「難波の堀江」を掘削したことにより、これらは「解消」されたとされているはずですが、それにも関わらず、実際にはそれから「二〇〇年」近く経過している「六世紀終末期」でも、一向に大差がないというのも奇妙な話です。
 このことは「このふたつ」の出来事には本当は「時間差」がないのではないか、という疑いが発生するものですが、このことは「仁徳」と「利歌彌多仏利」あるいは「阿毎多利思北孤」と同時代であるという考えを補強するものでしょう。

 また、伝承によれば「旧四天王寺」は「亀井の霊泉」と呼ばれる「泉」(井戸)の上に「金堂」が建てられていたようです。(今でも「現四天王寺」の中には「亀井堂」という泉があり、この水は、「金堂」の地下からの湧水であり、供養を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うと言われ、地元の人々の信仰を集めています)
 この「旧四天王寺」跡から少し離れますが、「和泉市」と「泉大津」市にまたがって「池上・曽根遺跡」が発掘されています。この遺跡は「神殿」と思われる建物の正面に「井戸」があり、この「井戸」が樹齢七〇〇年の「楠(クスノキ)」をくりぬいて作られたものであって、この井戸がこの神殿の中心的な位置を占めていると考えられ、「霊泉」と言うにふさわしい雰囲気となっています。多分この地域の王の「王権」の確立と、この「井戸」の間には深い関係があるものでしょう。
 またここで使用されている「楠」はその後「仏像」を彫刻するのに使用されるなど「霊木」として考えられていたものであり、この時も「霊木」としての信仰が下地にあったものと思われますが、その「楠」は「九州」特産の木であることを留意する必要があるでしょう。
 また、この地にはこのように「泉」に関する信仰が古くからあり、この四天王寺はその「泉」信仰をうまく取り入れて、仏教信仰を広めるのに利用したものではないかと推察できます。
 このことを考慮すると、この寺の建立のきっかけは「戦勝祈願」というより、この地域一帯に古くからある「泉」信仰が仏教と合体したものではないかと考えられます。つまりこの「四天王寺」のあった場所にはもともと「神社」があったのではないかと思われることとなるでしょう。
 また至近に「玉作の里」があったようですが、「玉作(玉造)」には「清水」が必要であり、この付近が良質な地下水に恵まれていたことが判ります。しかも「玉」は「神社」における祭祀に必要なものであったと思われますから、ここには「神社」があったと見られ、それはこの「玉造工房」との関連が推定できるものです。
 その後(創建から二十五年経ってから)、ある事情により建て替えるわけですが、創建は「忍坂日子人太子」に擬される人物であり、「阿毎多利思北孤」の前代の「倭国王」であったと思われるのに対して、移転を主導したのは「太子」である「難波皇子」に擬される「阿毎多利思北孤」であったと考えられます。

 「阿毎多利思北孤」は「百済」からの「一切経」伝来などを承けるとともに、「物部」など反仏教勢力でありまた親新羅系の勢力を打倒し、軍事力と警察力をその支配下に納め、強力な統治能力を手にしたものであり、この段階以降、各地に「法華経」にもとづく「仏教布教」を始め、「阿弥陀信仰」を広げていったと見られ、その時点で各地に寺院(百済系)が多数作られることとなったものです。
 この時造られた各種寺院が「倭国王権」により「統一的」に作られたと考えられる徴証が「瓦」であり、寺院様式です。
 「四天王寺」を含むこの時期に創建された寺院は「瓦」に同笵関係(つまり同じ「型」から造られた)があると考えられています。
 つまり「飛鳥寺」(法興寺)「金堂」と「若草伽藍」(法隆寺の前身寺院)及び「四天王寺」(ほかに「豊浦寺」「百済大寺」など)が同一瓦製造技術者により造られたことが判明しているのです。
 またこれらの寺院はその様式が金堂と塔、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺」形式であることが確認されています。「法興寺」は一般には別形式と認識されていますが、「大越氏」の研究により、東西金堂に比べ塔などの建築時期が遅れるという事が確認されており(それは元々「衣縫造」の私宅であったという『書紀』記述からも想定できることですが)、当初は「四天王寺」形式で建てられたものであることと推論されています。
 このように「瓦」や「建築」の「形式」などが同じという事はこれらの各種寺院建築に携わった各種技術集団が同一であることを示すものであり、明らかに彼らは「強い権力者」による指示により行動していると考えられるものです。

 ただし現在の解釈では「天王寺」に使用された瓦については「笵」の損傷に基づく傷が最も大きいとされ、最後に瓦が作られたとされます。それは「飛鳥寺」から「豊浦寺」などに対して瓦が製造された後のことと推定されており、その間二十年程度の時間経過が想定されているようです。しかし、それは『書紀』の記述と大きく離れており、また「瓦」の作製の想定年次はほぼ純粋に「想定」であり、根拠としては不十分であることは瓦の専門家も認めているものです。
 この時点は「瓦」が当時の倭国で初めて使用される事となった時点とされていますから、それ以前からの「瓦編年」についての蓄積があるわけではありません。この時点が瓦編年の始まりというわけであり、それが「ずれている」あるいは「誤認」があるとするとするとそれ以降全て歪んだものとなってしまいます。つまり実際にはもっと短期間のことであったと考える方が実際的と思われ、「六世紀後半」の瓦製造を想定することもまた不自然ではないと言えるでしょう。


(この項の作成日 2011/03/09、最終更新 2015/01/01)