ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:難波遷都と四天王寺:

「難波」遷都と「四天王寺」(1)


 『二中歴』に拠れば「難波」には「六一八年」に「天王寺」が作られています。この寺院がそれまで同じく「難波」にあった「四天王寺」を移築し改装したものであるのは確実と考えられますが、そもそも、ここに「四天王寺」があるのはなぜでしょう。
 
 『書紀』によれば「四天王寺」は「聖徳太子」が「物部守屋」と戦ったときに「戦勝祈願」をしたことがそのきっかけだったように書かれています。この時の「物部」の軍との戦いは「五八七年」のこととされています。
 この時「聖徳太子」が「仏の守護神」である「四天王」への願掛けにより勝利したことを踏まえ、難波の地に「四天王寺」が建立されることとなる、というわけです。この「四天王寺」の完成は推古元年(五九三年)説もありますが、「崇峻二年」(五八八年)、(九州年号の)「勝照三年」(五八七年)という説もあります。

 ところで「法興寺」の建てられる経緯は『書紀』によれば「四天王寺」のそれに非常によく似ており、「物部守屋」との戦いに際し、「聖徳太子」と共に「蘇我馬子」が勝利を祈願した御礼として建てられた寺院とされています。

「崇峻前記 平亂之後。於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅。爲大寺奴田庄。以田一萬頃賜迹見首赤梼。蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺。」

 これについては「元興寺縁起」に記される建立説話には別の理由が書かれています。それによれば、「丁未年」(五八七年)「用明天皇二年」「百済」から使者が訪れ、彼が「法師寺」(尼僧ではなく男性の僧の寺)を作るべき」と天皇に語った事から、建てられる事となったと書かれています。

 「四天王寺」は「聖徳太子」が建てられた、とされている寺ですが、『書紀』には記事らしい記事がなく、蘇我氏が建てたとされている「法興寺」はその進捗がかなり詳しく書かれています。
 『書紀』には「四天王寺」に関する記事は「推古元年」の「是歳。始造四天王寺於難波荒陵」という「日付」も曖昧なもの以外見あたりませんが、「法興寺」の方は以下のようにかなり詳しく書かれているように見えます。

@「崇峻元年 壤飛鳥衣縫造祖樹葉之家。始作法興寺。此地名飛鳥眞神原。亦名飛鳥苫田」
A「冬十月。入山取寺材」
B「五年冬十月 是月。起大法興寺佛堂與歩廊」
C「推古元年春正月壬寅朔丙辰。以佛舎利置于法興寺刹柱礎中。」
D「丁巳。建刹柱。」
E「四年冬十一月。法興寺造竟。則以大臣男善徳臣拜寺司。是日惠慈。惠二僧始住於法興寺。」
F「十三年夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。高麗國大興王聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」
G「十四年夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。」
H「五月甲寅朔戊午。勅鞍作鳥曰。朕欲興隆内典。方將建佛刹。肇求舎利。時汝祖父司馬達等便獻舎利。又於國無僧尼。於是。汝父多須那爲橘豐日天皇出家。恭敬佛法。又汝姨嶋女。初出家爲諸尼導者。以修行釋教。今朕爲造丈六佛以求好佛像。汝之所獻佛本。則合朕心。又造佛像既訖。不得入堂。諸工人不能計。以將破堂戸。然汝不破戸而得入。此皆汝之功也。則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥以此田爲天皇作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺」

 しかし、「法興寺」関連記事は以上のうち@からDまでであり、その中には「寺司」任命記事、「心柱」の基礎に「仏舎利」を置いた記事や「心柱」を建てた記事はあるものの、それ以降の記事がありません。
 Fの「仏像」の製作を「誓願」した記事はありますが、ここには「法興寺」とも「蘇我」とも書かれておらず、これが「法興寺」のものという何の証拠もありません。これは「倭国王権」による「勅願寺」に関する事と理解するべきものです。
 そもそも「高麗王」からの「黄金」が「倭国王」に関係がないと言うことは考えられず、この黄金が使用されるべき寺院も「倭国王」に直結するような位置にあると考えられます。
 同様のことはGにも言え、ここでは「法興寺」ではなく「元興寺」と書かれています。この両寺は一般には同じと考えられていますが、別寺とする見方もあり、それを証するように「丈六銅像」が納められたのが「金堂」とされています。「金堂」の語義から云って「堂内」ないし「本尊」が「金メッキ」されているものと考えると、Fで入手した「黄金」がこの銅像」にメッキされたものと見られます。
 このような経緯を考えると、「太子」が創建した「四天王寺」とは別に、「倭国王権」が深く関与した、「勅願寺」として「元興寺」が建てられたと見られ、この寺が非常に重要な位置を占めていることが推定できます。
 
 この「四天王寺」は地元の伝承では崇峻年間に建てられたもので、元々は別の場所であったものの「波が押し寄せ、鳥などが多数集まる」などの問題が起こったため、(河川の氾濫などを指すものか)「二十五年後」に現在に建て替えられた、といわれています。元々あった場所を国土地理院の地図で確認すると、現在地よりもかなり地盤が低い事がわかります。(十メートル以上の差があるようです。)

(「浪華百事談」等)
「人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、「上古図」の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり」

 この記録によれば「五八八年」に建てられたこととなり、その二十五年後である、「六一三年」に建て替えられたこととなります。これらはいずれも工事開始の年を記録しているものと考えられ、完成まで数年かかる事を想定すると、『書紀』に言う「五九三年」という年次も妥当であると考えられ、それは「転移」して「建て替え」を行った「六一三年」にも言える事と考えられます。この時も数年を要したものと考えられ、それであれば『二中歴』に言う「二年難波天王寺聖徳造る」という記事と整合するでしょう。

  倭京五戊寅(二年難波天王寺聖徳造)

 この記事は「倭京」年号は五年継続し、その元年干支は「戊寅」(六一八年)であり、その「二年」(六一九年)に「難波天王寺を聖徳が造った」という意味を指していると考えられます。

『聖徳太子伝私記』にも以下のような記述があります。

「法隆寺。推古天皇元年《癸丑》。春正月。太子詣鵤郷給。立法隆寺。前年所々相尋給。今年始建之。四天王寺移立荒陵池上同時也。御等身四天王移立難波天王寺。守屋頭并大刀衣装移置法隆寺。云々。二寺共正月建始。天王寺者二十八御年八月十五日令供養給。法隆寺者三十五之御歳《丁卯》二月十五日。供養給。云々。或卅六。」(『古今目録抄』「聖徳太子伝私記」より)

 ここでは「物部守屋」を倒した際に建てられた「四天王寺」を「移築」して「天王寺」としたこと、その移築と同時に(「癸丑」の年つまり五九三年に)「法隆寺」を建て、そこに当初は「四天王寺」にあった「物部守屋」の「頭」(「首級」か)と「衣装」「大刀」などを「法隆寺」に移したということが書かれています。
 この年次から考えて「隋」との交流の結果「法隆寺」つまり「元興寺」が作られたことがやはり推定できますが、その時点で「隋」から「四天王信仰」もまた渡来したものと思われ、それを現実のものとするために「四天王像」を改めて製作し、それを「法隆寺」と共に「天王寺」にも納めたものと考えられます。さらにそれが「難波」の台地の上に移されることとなったわけですが、それは「四天王」が「護国」として位置づけされたためであり、「上町台地」から周囲特に「海側」を「睥睨」することにより、国家防衛の拠点としての意味合いが持たされたものと思われます。


(この項の作成日 2011/03/09、最終更新 2015/01/15)