ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:部民制と奴婢:

「部民制」と「奴婢」(二)


 「六世紀後半」までの「倭国」はその「統治権」はかなり狭く、せいぜい西日本が統治エリアに入っていたものの、東国にはその権威は及んでいなかったと見られます。
 他方、後の新日本国王権となる「近畿王権」もまだ弱小であって、東国に広く統治権を及ぼすような権威は持っていなかったと見られます。
 この様な状況を総括して云うと「六世紀後半」までの「倭国」は、全国的な立場で見ると、その諸国への権威は間接的であり、また「緩やか」であったと見られるわけです。
 『常陸国風土記』など見ても「古」は「各」「クニ」に「別」や「造」などが配置されていたとされていますが、彼らは「九州倭国王朝」の権威を認めながらも、彼らに何らかの拘束や束縛はほとんど受けずに各々の「クニ」を統治していたと見られます。このような「倭国中央」と「諸国」の関係はあたかも「南北朝」以降の「中国皇帝」とその周辺諸国の関係に近似しており、「倭国王」が「将軍号」を貰い「倭国王」である旨の「承認」を「中国皇帝」から受けていたように、各諸国は「倭国中央」から「別」や「造」の地位を認めて貰い「直」などの「姓」をもらう事で「倭国」の「周辺諸国」としての地位を確固とする、という手法を用いていたと考えられます。
 これは「諸国連合」とも違い、「緩い封建制」とでも言うべき状態と思われ、各諸国がほぼ自立していた状態であると思われます。「諸国」にとって「九州倭国王朝」は「天朝」であり、遠くの存在であって日常の政治とは隔絶していたと考えられます。

 「五世紀」の「倭の五王」時代には「騎馬勢力」を使用して東国に至る広い範囲にその威厳と威力を示したものであり、「部」や「造」などにはそのような権威を直接著す「武具」「馬具」「刀剣」などが賜与されたと見られ、また「祭祀」や「墓制」などについては「倭国王朝」との結びつきを示す意味でも同様の形態を取ったものと見られますが、それはそれ以上ではなく、特に「倭国王朝」が直接「政治力」や「武力」を展開するというようなことはほぼなかったと見られます。
 折々、「倭国王朝」の権威を確認するようなイベントがあり(「即位」など)、各諸国は(特に首長クラス)はそのようなときには、「倭国」に使者を派遣し、あるいは首長が自ら出向き、互いの関係の再確認を行っていたと見られます。
 しかし、この「改新の詔」時点で始めて「東国」などに対して「統治権」を確立したわけであり、それは「中間管理的権力者」の存在を許さないという以下の詔の一文からも明らかです。

「「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「…天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。…」

 ここでは明確に「王」が直接「万民」を使役すると宣言しています。つまり、従来各諸国に(この場合「クニ」か)存在していた「別」や「造」という存在を飛び越えて、この時点で始めて彼らは直接的な統治権を奪取、確立したのであって、それ以前にはそのような強大な権力は保有していなかったと見られることとなります。
 このような「革命」が成功した要因は既に見たように「警察・検察」という「治安維持」に関する勢力を手中に収めたからであり、それを「諸国」に展開可能とする「官道」の整備との関連が重要であったと思われます。
 「公民」という概念が導入されたのもこの時点であり、それについては各「別」「造」などの諸豪族は、何のことかわからなかったのではないでしょうか。
 このような状況は、これが「改新の詔」と呼称されているように、また『書紀』では「蘇我氏」を打倒した「クーデター」により成立した政権であるところの「孝徳天皇」の「詔」として出されていることでも分かるように、彼らは「革命政権」であったと見られ、そのこととこれら「詔」が語る背景とは重なっていると言えるでしょう。
 また「部民」にとってみればそれまでともすれば「二重支配」となっていたものが、「倭国王」が直接支配すると云うことで、支配と搾取が二重に課せられることはなくなった訳ですから、この「革命」は歓迎されたものと見られます。
 
 「改新の詔」以前には「奴婢」と「部民」の大部分は実質なにも変わらないものであったとみられますが(「鳥飼部」「馬飼部」に典型的なように「奴婢」と同様「入墨(黥)」がされていたと見られる)、「改新の詔」以降は「間人」のような「雑戸」となって下層ではあるものの「良人」として「奴婢」からは区別されるようになり、「歴史的段階」としては一ステップ進んだものと言えるでしょう。
 それまでは「良民」や「奴婢」など「万民」が仮に「公民」であったとしても、諸国に配置した「別」や「造」によりその運用は負託されていたものであり、それは容易に彼らの「己民」つまり「私民」という扱いになり、また認識されることとなったと思われます。
 「別」や「造」などは「豪族」と呼ばれる存在であったとみられますが、彼らの存在や彼らの私民の存在を認めないということと、『常陸国風土記』に云う「惣領」により「我姫」を「八国」に分割再編したという事は、その事業内容において共通していると思われます。このような再編が「別」や「造」の権威を破棄するものとなり、「大国」としての「国」の誕生とそこに配置されることとなった「国宰」の権威を絶対化するものとなるのは当然とも思われ、『常陸国風土記』の記事はこの「詔」の内容が実行に移された時期と実態を示すものと考えられ、これらはほぼ同時期に行われたことを示唆するものと云えるでしょう。

 「部民制」というものについては、その起源が「五世紀」代にあり、当時は「倭国王権」と強くつながっていた民であり、当時の「武装植民」(屯田兵)として派遣されたような存在もいたと思われますが、多くは領土拡張の際に「捕虜」とされた人々であり、彼等は「奴婢」となり、特定の氏族に使役される形で「部民」とされていったものと思われます。本来は彼等は「倭国」という国家に直属するものであったはずですが、それが多少年代を過ぎると「倭国王権」の統治が「弛緩」するところとなり、「現地権力者」の使役するところとなっていったものと思われます。
 「倭国王権」の力を示す後続の行動や勢力が減退したり消滅したりしてしまったという実体が発生したことがそのような地方権力の成長を促す原因となったと思われます。そのような「諸国」と「倭国王権」との「つながり」が切れてしまうような「典型的」な出来事と言うのが「磐井の乱」であったのではないでしょうか。

 この「乱」は既に見たように「筑紫」という「倭国王朝」の中心部と言うべき場所が、「物部」により占拠、制圧されてしまったことを意味すると考えられ、このことから「九州倭国王朝」の力が「東国」などに及ばなくなったと見られます。その結果、「起源」としては「倭国王権」と結びついていた「部民」さえも「地方勢力」の配下となって「己民」とされていったという経過を招くこととなったものでしょう。
 このような状態を打破するために行われたのが「改新」であり「革命」であったものと考えられ、それは「筑紫」を占有していた「物部」を打倒・追放した事により実現したものであって、『書紀』に云う「守屋」を打倒した「六世紀後半」に想定されるべきものであると考えられます。この時点で「受命」つまり「天命」を受けた人物が現れたものです。
 つまり、上に見たような「土地兼并禁止詔」などが出された時期というのは「六世紀末」ないしは「七世紀初め」という時期が最も想定されるものであり、『隋書俀国伝』に言う「阿毎多利思北孤」ないしはその太子「利歌彌多仏利」の為した事業と考えられます。

 「改新の詔」以前も以後も、明確に「良民」と言えるものは「農民」特に「稲作」を行なっていた人々であると思われ、それは「公地公民制」の基本が「班田制」であり、「稲作」をして「租負担」を負うものだけが「公民」と考えられていたことからも明確であると思われます。(「奴婢」への班田は彼等の食用に供するためであり「租負担」はなかったもの)
 この「改新の詔」では「犯罪人」以外の「奴婢」を「良民」へと解放し「入墨」も廃止したものですが、それはひとつに「班田農民」として「租」を負担させる意義があったと見られます。この時点でかなりの「奴婢」が「良民」へと身分が変わったと思われ、彼等が「田作」をすることにより国家としての「租」生産能力のアップと、それが国家への収入という形で現実化することを期待したものと思料します。


(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2013/11/26)