「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。
「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」
この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。
「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造等先自收斂。然後分進。修治宮殿。築造園陵。各率己民隨事而作。易曰。損上益下。節以制度。不傷財害民。方今百姓猶乏。而有勢者分株水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主、兼并劣弱。百姓大悦。」
ここでは特に「仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又割國縣山海林野池田。以爲己財。」の部分が注目されます。そこでは「天皇ごとに」置かれた「標代民」という存在と、「其臣連等。伴造。國造」が置いた「己民」というものが書かれており、この両者については従来「並列的」に存在しているという理解が大勢であったものです。しかしそれでは文意が通らないのは明らかです。もしそう理解するなら「毎天皇時。置標代民。」と云う文が前置されている意味が不明となってしまうでしょう。
ここは明らかに「標代民」という存在が「其臣連等。伴造。國造」によって「窃取」されており、それが彼らの「己民」とされていて「恣情駈使」されているということを糾弾している文章であると理解すべきです。「標野」というものが「薬草」を採集するために「区画」された領域を示すものであると考えられることの類推から、この「標代民」というものも、他から「区画」され「天皇」のために特別に配置された「人民」を示すと考えられますが、それが「窃取」され、「恣意的」に使用されているということと思われます。
それはその直後の対句的文章である「又割國縣山海林野池田。以爲己財。」という中にも現れており、「國縣山海林野池田」は本来私的なものではなく「倭国王」の所有にかかるものであるのにも関わらず、それを「割いて」「己財」としていると非難しているわけです。そして今後その様な事態(実体)を認めないという宣言であると思われます。
従来からもこの宣言における「権力」は「所有権」として発せられているもののそれは全ての諸豪族の権利を上回る「公権力」として発動されていると見るべきという考え方がありましたが、それは「正鵠」を得ていると云うべきであり、ここにおいて「強い権力」が発現したこと、そのような「権力者」が倭国に発生したことを示すものと考えられます。
その直前の「東国国司詔」では「凡國家所有公民。大小所領人衆。」という表現が見られ、「公民」以外に「人衆」がいたという事を示していますが、その実体は「大小」(これは諸豪族を指すと思われる)の所領となっていた本来「公民」であったものを指すと思われます。
ここでこれらの詔を通じて表明していることは、全ての民は「公民」であり、「諸豪族」の配下にあるような「民」も本来は全て「天皇の民」であると言う事でしょう。(このことからこの時点の「公民」の中には「奴婢」も入るべき事が判ります。それは「公地公民制」の象徴である「班田制」において「奴婢」にも「班田」が与えられていることからも理解できます。)
しかし、もちろんこれはその「詔」を出した時点における「大義名分」が言わせる言葉であって、その現在時点における「大義名分」を過去に押し広げたものであるといえます。
しかし、その直後に出された「改新の詔」ではややニュアンスが異なっています。
「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。仍賜食封大夫以上各有差。降以布帛賜官人百姓有差。又曰 大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。」
ここでは「伴造國造村首所有部曲之民處處田庄」について、それが本来「倭国王」のものであるという非難はされておらず、その存在を認めつつ、今はそれを廃止して「食封」に変えるという事を宣言しています。つまり「所有権」が誰に帰するものかはここでは敢えて触れていないわけですが、それはそれ以前に出した「詔」に対する反発が強かったからではないしょうか。つまり「改新の詔」では実体を認める立場に微妙に変わったと考えられます。「窃取」や「横取り」などの感覚はある意味「被害者的」なものであり、また一方的でもあるわけで、それは元々統治能力の低下と関連しているわけですから、諸豪族に対して非難するいわれは本来ないわけです。
「改新の詔」以前に「東国国司」などを通じて各諸国に伝えられたこのようなある意味一方的な情報に対してかなりの反発があり、その結果既定方針は変えないものの「諸豪族」の元の「部曲」(私奴婢ないしは家人)というものの存在を認めた上でそれを廃止するという事としたものと思われます。
ところで「翰苑」という史書があります。「唐」の張楚金の撰によるもので「七世紀後半」の作とされているものです。この中に「倭国」に関する歴史的認識が書かれている部分があります。
(以下「翰苑 蕃夷部 倭國」の全文。また【 】内は「雍公叡」による注を示します)
「憑山負海、鎮馬臺以建都
【後漢書曰 「倭在朝東南大海中、依山島居、凡百餘國、自武帝滅朝鮮、使譯通漢於者州餘國、稱王、其大倭王治邦臺、樂浪郡?去其國万二千里、甚地大較在會稽東、与珠雀・?耳相近。」
魏志曰 「倭人在帶方東南、[ク/火]問[イ妾]地、絶在海中洲島之山、或絶或連、周旋可五千餘里、四面倶[?互]海、自營州東南、經新羅、至其国也。」】
分職命官、統女王而列部
【魏略曰 「従帶方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國七十餘里、始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑拘、副曰卑奴、無良田、南北布糴、南度海、至一支國、置官至對同、地方三百里、又度海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之、東南五東里、到伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚、其國王皆属王女也。」】
卑弥娥惑、翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望
【後漢書曰 「安帝永初元年、有倭面上國王帥升至桓遷之間、倭國大乱、更相攻伐、歴年無主、有一女子、名曰卑弥呼、死更立男王、國中不服、…」
この中に「分職命官、統女王而列部」という表現がされている部分があります。この部分は「古田氏」の解読によっても「官職を分って任命され、女王に統率せられてそれぞれ「〜部」という形に分けられている。」という意とされます。
つまり「卑弥呼」の元に「部」という官職が存在していたという記事なのです。
ご存じのように「倭国」には古代より各種の「部」が存在していました。その起源について考える場合、「卑弥呼」の時代まで遡って考える必要があることを示すこととなるわけです。
たとえば、その代表的なものが「解部」であると思われます。これは『豊後風土記』にも出て来るものであり、その起源はかなり古く少なくとも「五世紀代」までは遡上すると考えられます。
『倭人伝』にも「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」という文章があり、これは「律」の存在とその実務を運用する吏員である「解部」の存在を推定させるものですが、それはまた一種の官僚構造の存在をも推定させるものです。
いつの時代でも「国家秩序」の維持というのは重大事項であり、優先的にこれらに関する制度が決められ、また必要な「部」が決められていたと考えられるものです。
『古事記』『書紀』を見ると、以下のように各種の「部」が見られます。
(以下例)
「額田部 三技部 雀部 鳥取部 鳥甘部 品遲部 土師部 田部 玉倉部 河上部 楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。川上部 鷹甘部。 春米部 織部 壬生部 葛城部 飼部 車持部 藏部 宍人部 御戸部 廬城部 河上舍人部 史部 漢手人部。衣縫部。漢陶部 畫部 錦部 漢部 山部 山守部 佐伯部 玉作部 石上部 犬養部…」
以上のように多数に上りますが、いずれも「官僚制」というより「部民制」であり、同じ「部」から発してもそれを「職掌」としていたものが「世襲」になり、その職掌と離れた実体となってもなお「姓」(カバネ)となって生き続けてたものと思われます。つまりこれらについても起源は「卑弥呼」まで遡上するという可能性が強いと考えられることとなるわけです。
そもそも「倭国」は「殷周」段階から既に「中国流」の制度で運用されていたと思料されます。そして、「漢代以降」はそれら「官僚制」の元に各諸国を統治するための「官吏」が派遣され、彼らの実務を実行するために各種の「部」が置かれたものであり、その後代的なものが『書紀』『古事記』に出てくる各種の「部」であると考えられます。
(この項の作成日 2013/05/05、最終更新 2013/11/26)