『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、その皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる「皇帝」に直接関わる記録です。
「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点で宮廷の秘府に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、漏れているようです。
また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。それは「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されており、「起居注」以外の資料を相互に対照していることなどから「推測」されていることです。(※1)
「(大業雑記十巻)唐著作郎杜寶撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史未尽実録。故為此以書。以彌縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)
また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德?奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜?數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。…」(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)
つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。(『隋書』の『経籍志』中にも確かに「雑史」の部の最末に「隋書六十卷未成。祕書監王劭撰。」とあり、『隋書』の編纂者はこの「王劭」の書いたものを承知していたらしいことが窺えます。)
「王劭」については以下に見るように「隋」の「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰し、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧され、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職しています。
「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為?史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四 王劭』より)
「煬帝嗣位,漢王諒作亂,帝不忍加誅。劭上書曰:「臣聞?帝滅炎,蓋云母弟,周公誅管,信亦天倫。叔向戮叔魚,仲尼謂之遺直,石?殺石厚,丘明以為大義。此皆經籍明文,帝王常法。今陛下置此逆賊,度越前聖,含弘寬大,未有以謝天下。謹案賊諒毒被生民者也。是知古者同德則同姓,異德則異姓,故?帝有二十五子,其得姓者十有四人,唯青陽、夷鼓,與?帝同為?姓。諒既自?,請改其氏。」劭以此求媚,帝依違不從。遷祕書少監,數載,卒官。」(同上)
このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成していたとはいえなくなると思われます。
実際に下記のように彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されているわけですから、あくまでも「王劭」は「開皇」「仁寿」という文帝治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。
「…劭在著作,將二十年,專典國史,撰隋書八十卷。…」(同上)
つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。(「高祖」文帝の「一代記」という性格があった思われます)
その後「唐」の「高祖」(李淵)により「武徳年間」に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのはここでも「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
さらに『旧唐書』(「令狐徳ふん伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐徳ふん」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德?奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德ふん』より)
ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。しかし、同様の記述は「魏徴伝」(『旧唐書巻七十一』)にも書かれています。
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。?以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徴』より)
ここでも「典章紛雜」と表されていたものがその後「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、それ以前に収集された史料ではまだ完全ではなかったことを示すものであり、更にこの時点でも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問と思われます。結局失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われるわけです。
少なくとも「経籍志」の中に「大業起居注」が漏れていることから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。
「太宗問侍臣:「隋《大業起居註》,今有在者否?」公對曰:「在者極少。」太宗曰:「起居註既無,何因今得成史。」公對曰:「隋家舊史,遺落甚多。比其撰?,皆是采訪,或是其子孫自通家傳參校,三人所傳者,従二人為實。」又問:「隋代誰作起居舍人?」公對曰:「『崔祖濬』『杜之松』『蔡允恭』『虞南』等臣毎見、『虞南』説『祖濬』作舎人時大欲記録但隋主意不在此毎須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具。」 (王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)
つまり太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。
結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われる訳ですが、そもそも「太宗」がこのような質問をしたという時点で「太宗」自身が『隋書』の編纂の内情に疑いを持っていたことを示すものといえるでしょう。)
似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』の場合はさらに惨憺たるものであり、数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性には重大な疑義が呈されています。
これも『隋書』同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかったものであり、「大業年間」記事はあってもわずかなものであったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのようなものが本来「起居注」にしか記録されるはずのない性格のものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審としかいいようがありません。
これに関しての研究(※2)では「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされています。しかし、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、「大業年間」記事があったとするならそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。
また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は「大業起居注」を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。元々「起居注」は皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる「言動の記録」は存在していなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に欠かれたものなのでしょうか。
「使者」を「倭国」に派遣したのは「煬帝」ではないのではないかという「疑い」は後の「元寇」の際に「招慰」のため派遣された「趙良弼」の発言からもうかがえます。
「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。
「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。これを見ると「煬帝」の派遣が書かれていません。「趙良弼」の発言の背景は『隋書』の「大業三年記事」に対応していますから、「煬帝」が派遣したという『隋書』の記事内容に対して実際には「文帝」つまり「楊堅」の時ではなかったかと考える余地が生まれることとなるものです。
(※1)中村裕一『大業雑記の研究』(汲古書院二〇〇五年)
(※2)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 2008』、2008年3月)
(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2017/11/12)