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「倭」と「俀」の表記の差について


 「唐代」に『隋書』を編纂するという段階において「王劭」が隋代に「中書舎人」という立場にあった時点で入手できた資料等により「隋」の高祖(文帝)在任中についての記録として書いた『王劭版隋書』はあったものの、「煬帝」即位期間の記録はなかったとされているわけです。しかし、『隋書』を見ると「帝紀」にも「列伝」にも「煬帝」在任期間中の記事が書かれており、その背後にどのようなことがあったのか疑問となるということを前記しました。それについては以下のことを想定してみます。つまり「大業起居注」が欠落した中で「どうしても」「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、「開皇起居注」や「仁寿年間」の記録から記事を「移動」して「穴埋め」をしたものではないでしょうか。(さすがに「捏造」とは思われませんが)その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」にみられるという「事象」が発生していると思われるわけです。

 この「想定(仮定)」は「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものという考えにつながり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」(文帝)の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになります。
 このことは「王劭」が書いていたという「開皇」「仁寿」年間についての『隋書』がこの「日出処の天子」と書かれた国書持参記事に利用された可能性が考えられるものですが、それを傍証するのが「帝紀」には「倭」とありながら「列伝」の方では「俀」国伝になっているという違いです。この差は明らかに「原資料」の素性(出所や性格)の違いに起因するものであり、「倭国」に関する資料に複数の出典が想定されることを意味するものです。

 これに関しては「倭」と「俀」が別の国を指すという古田武彦氏を初めとする「多元史観論者」の主張がありますが、『隋書』に記事の転用・移動があるとする「仮定」からは即座には同意しかねます。もしそうなら「帝紀」と「列伝」というそれぞれに「倭」と「俀」の双方について偏って存在することの意味を説明する必要があるでしょう。(ただしそれは(「倭」と「俀」は単純に互換の語であるとする旧来の立場についても同様にいえることですが)
 古田氏はこれについてその書『失われた九州王朝』において「列伝」と「帝紀」の記事の時間差に注目し、その二つが接近していることからこれらを同一の国と見る事はできないとされました。つまり「帝紀」によれば「大業四年三月」に倭国からの「朝貢記事」があるのに対して「列伝」(俀国伝)ではその前年に遣隋使が送られており、それに応えて「裴世清」が派遣されたのがその翌年のこととなるとされますから、非常に短期間(数ヶ月か)のうちに別に「使者」を派遣したこととなり、そのような想定は無理があるとされるわけです。
 しかしこれは「帝紀」と「列伝」の年次が実際に接近していたという想定の下の判断であり、すでに述べたように「列伝」記事(少なくとも「俀国伝」記事)は実際にはもっと遡上した時期のものであり、「帝紀」の記事とは年次がかなり離れているとみる立場から言うと、それらは「矛盾」ともいえなくなるわけであり、その意味で「倭」と「俀」が同一の国ではないと考える必要もなくなるわけです。

 明らかに「王劭」が書いていた『隋史』が「列伝」の資料として参考にされたものであり、その影響が「倭」と「俀」の書き分けという結果になっていると考えられるわけですが、その場合彼はわざわざ「歴史的」な地域名である「倭」を敢えて「俀」に変えて『隋史』を書いていたこととなります。その意図はどこにあったのでしょうか。それは彼が熱烈な「高祖」の崇拝者であったらしいことが関係していると思われます。
 彼は「高祖」に認められ「在野」の立場から「史官」へと採用されたものであり、彼の「文章」を書く能力を買って抜擢したと思われますから、「王劭」が「高祖」に対して「恩義」を感じていたとして不思議ではありません。
彼は「高祖」が即位した後「高祖」を「聖皇帝」であると賞賛し、各地で見られた現象を全て「高祖」に関わる「瑞祥」であるというように幾度も「上表」したものです。さらに『舍利感應記』を書き、その中では「高祖」を「仏教」を再興した「聖天子」であるとするなど賞賛の言辞で埋め尽くされています。その彼にとって見ると「高祖」に対して「身の程知らず」の言辞を弄し、その結果「宣諭」される結果となった「倭国」を、「漢」や「魏晋」から正統な王朝と認められていた伝統と名誉のある「倭国」と同一の扱いをすることはできないと考えたとしておかしくはなく、「俀国」という一見互換性のある語を使用しつつもそこに「弱い」という意を含んだものをあたかも「レッテル」の如くに貼り付ける行為に及んだものと考えることができるでしょう。(元々「倭」にも「従順」という意があったものであり、また「弱い」という意味もその中に含んでいたものと思われますが、それをことさらに強調するための選字と思われます)。つまり「俀」国表記はこれが「王劭」の『隋書』にあったものを参照したとして、「宣諭事件」が「文帝」の時に起きたと考えたときに初めて整合性をもって説明できる事象であると思われるのです。
 これが「煬帝」の治世時点でのことであったとすると「王劭」の関与の余地がないこととなり、彼が編纂した『隋書』に「俀」国表記がなされるはずがないこととなります。その「王劭」の『隋書』を参考にして書かれたとみられる「倭国」関係資料(列伝)が「俀」国表記となっていることは即座に「宣諭事件」そのものが「文帝」の時代のことであったことを如実に示していると思われるものです。

 「帝紀」特に「煬帝紀」には「王劭」は関与していないという可能性が高く、そのため「帝紀」の編纂者は彼ほど「大義名分」を重視しなかったということが考えられ、「先代」の「文帝」の治世期間において「宣諭事件」がありながらも通例通り「倭」という表記で資料が書かれていたものと推量されます。このような事情により「不統一」な状況が発生したものと考えられる訳です。(ただし、この事は「俀国伝」など「列伝」と違って「帝紀」には年次移動等の潤色がないという意味ではありません)

 「王劭」という人物は上にみたように「高祖」(文帝)に対し過度の傾倒をしていたものであり、それにより「無礼」な「倭国」を「俀国」に書き換えたとみたわけですが、さらに彼は「宣諭」される以前に交渉のあった「倭国」としての記録を「抹消」したのではないかとも考えられるでしょう。
 そう考えるのは、彼が「倭国」を「俀国」と書き換えたとすると、その理由として「宣諭」事件以後の「倭国」を「貶す」ことを目的としたことが考えられるわけですが、それ以前の「夷蛮の国」として「隋」と交渉していた時期の、「訓令」など受けながらもまだしも受け入れられる内容の交渉であった時点の記録までも、これを削除(抹消)することにより記述方針の徹底と統一を図ったのではないかと考えられるからです。
 『隋書』を見ると『推古紀』の「国書記事」と整合する内容の交渉記録がみられません。『隋書』中に「年次移動」がもしあったとしても事実関係そのものもが『隋書』中に見られないのは不審です。それが見られないのはその『隋書』の参照原資料としての『王劭版隋書』の段階ですでに「なかった」からであり、それは意図的に「抹消」されていたからではなかったかと考えられるのです。
 彼は中書舎人として「起居注」に直接携わっていた人物ですから、「起居注」にあったはずの記録を書き漏らすとは考えにくく、また「国書」のやりとりなどが「起居注」に書かれなかったとも考えられないことから、「倭国関連記事」は(当然「存在」はしていたものの)全て「抹消」し、「なかったもの」として『応劭版隋書』が書かれたと考えるしかないでしょう。

 これに対し『推古紀』の国書記事を見ると、逆に「宣諭」されるに至った交渉記事の類が見られません。これは『書紀』編纂者にとっては「隋」から「宣諭」されたということが国家の体面が汚されることとなったという自覚があったことから行われた「抹消」(或いは無視)であり、そのような「不体裁」な記事をそのまま書き残すことはできなかったと『書紀』編纂者が考えたとみることができ、それは「王劭」の『隋書』と同様の方針による改竄であったこととなります。互いに自王朝に不利(不名誉)なことを抹消し逆に残すべき有利な事実と考えたことだけを残したこととなるわけです。そのことは両記事が同一年次として書かれていてもその内実は別の年次の記事であるという事実につながります。

 以上推測の結論として、「隋」の秘府には「大業起居注」がなかったということから『隋書』編纂が困難を極めついには「仁寿年間」までしかなかった『王劭版隋書』を大々的にフィーチュアした結果、「大業年間記事」について実際の年次とは異なる年次に配列されたらしいことが推察され、さらに『書紀』が『隋書』を脇に置いてみながら編纂されたらしく、この両者の事情がいわば「合体」したことにより「大業三年」の宣諭記事と『推古紀』の国書記事(これは「開皇年間と推測される)が同一年次として記録されるというある種摩訶不思議なことが起きてしまったと考えられるのです。この結果『隋書』において、本来「開皇年間」つまり六八〇~七〇〇年の間に起きた出来事が七〇〇年を超えた年次として書かれている事となり、それだけですでに10―15年程度「ずれている」と思われるのに加え、『書紀』の記事がやはり「不利な記事」を抹消してなおかつ『隋書』との整合をとろうとした結果、さらに数年がそのズレに加わったとみられ、およそ20年程度の年代のズレが『書紀』において生じていると思われるわけです。
 この「ズレ」は『書記』の偏年に大きな影響を及ぼしているものであり、『敏達紀』全体が『欽明紀』記事の焼き直しであるという実態の発生原因となっていると思われるわけです。


(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2018/07/16)