ところで、『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われ、最も該当するのは「隋」の「高祖(文帝)」でしょう。
彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。「二代皇帝」である「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」していますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、未だ「天子」ではない段階のものであり、厳密には「高祖」とは同じレベルでは語れないものです。さらに、「高祖」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。
「北周」の「武帝」は仏教(及び道教も)に対して弾圧を加え、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに仏教の回復に乗り出します。「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業が矢継ぎ早に行われました。
そのあたりの様子は、例えば下記のような史料にも書かれています。
「…皇帝曰今『佛法重興』必有感應其後處處表奏皆如所言?州於棲霞寺起塔鄰人先夢佛從西北來寳葢旛花映滿寺衆悉執花香出迎及舍利至如所夢焉餘州若此顯應加以放光靈瑞類葢多矣」(攝山志/卷四/建記/舍利感應記 王劭)
また『大正新脩大蔵経』の中にも類例が散見できます。
「(開皇)二十四 辛酉改仁壽/初文帝龍潛時遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日為普天慈父。此大覺遺靈。故留與供養。僧既去。求之不知所在。帝登極後。嘗與法師曇遷。各置舍利於掌而數之。或少或多。竟不能定。遷曰。諸佛法身過於數量。非世間所測。帝始作七寶箱貯之。至是海?大定。帝憶其事。是以岐州等三十州各建塔焉
是年六月十三日。詔曰。仰惟正覺大慈大悲。救護?生津濟庶品。朕歸依三寶『重興聖教』。思與四海之?一切人民?發菩提共修福業。…」(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三六 佛祖?代通載二十二卷/卷十/詔三十州建塔)
「右一部一卷。元魏世婆羅門優婆塞瞿曇般 若流支長子達摩般若。隋言法智。門世已來 相傳翻譯。高齊之季為昭玄都。齊國既平佛法同毀。智因僧職轉作俗官。冊授洋州。洋川郡守『大隋受禪』。『梵牒即來』。『顯佛日之重興』。彰國化之冥應。降敕召智還使譯經。…」(大隋業報差別經一卷《開皇二年三月譯是第二出。與罪業報應經大同小異》)
「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」(大正新脩大藏經/第五十二卷 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序)
これらによれば「重興」という用語が「隋」の「高祖」と関連して使用されていることは明白です。
また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。家世豪盛。幼承庭訓博覽經籍。復於莊老而宿慧發揮。思從釋子。即往長安大興善寺曇光法師下。稟學納戒。傳受經法靡所不精。因遊嵩嶽 問圓通之訣。欣然趨入。後遊南嶽登昂頭峯。直拔蒼翠便有終焉之志。庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。結苫蓋構舍宇。復居一十五年。學人波委。咸通中示滅。春秋一百八?。至三年二月三日入塔立碑存焉。天下謂其禪學為昂頭照是歟 」(大正新脩大藏經/第五十卷 史傳部二/二○六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の高祖と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。また彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「隋」の「高祖」や「唐」の「宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
この点については従来から問題とされていたようですが、その解釈としては「煬帝」でも「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「煬帝」について「高祖」同様の仏教の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「高祖」が在位していると思っていたというようなものまであります。しかし「追従」や「迎合」などの解釈は同じ使者が「日出ずる国の天子云々」の国書を提出した結果「皇帝」の怒りを買う結果になったこととの整合的説明になっていません。
また「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと言えると思われますが、(別記)そうであれば「文帝」の存否の情報などを「持っていなかった」というようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて奉られたものとか考えるしかないこととなります。
そのような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。つまりこの記事は「高祖」の治世期間のものであり、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったのではないかと考えるべきではないかということです。
この推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。
「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
これによれば「裴清」(裴世清)は「隋の文帝」が派遣したと明確に書かれています。
ここで「王郊迎成禮」とされているのが『隋書』の「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多?、從二百餘騎郊勞。」という部分に対応すると思われますから、この時の「裴世清」を派遣したというものは「大業三年記事」に対応するものと思われ、年次に対する「疑い」が正当なものであることが言えるものです。(開皇二十年記事には「隋使」派遣の記事がなくまた倭国側の受け入れを記した記事も当然ながらありませんからこの記事との関連はないと思われることとなります。)
この「元史」については後世「杜撰」というような評価がされており、これを補筆・改定するために改めて「清代」に「新元史」が編纂されましたが、この部分はその「新元史」でもやはり「随文帝」と書かれており、修正はされていません。このことからこの記事についてはかなり明確な根拠があってのものと考えられますが、「趙良弼」や「元史」の編纂者が『隋書』を見ていなかったとは考えにくく、彼らは「別の史料」によってこのような知識を彼らの教養として身につけていたものではないでしょうか。それは例えば「王劭」版『隋書』などがそれであったかもしれません。
また「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。
「…其王與清相見大悅曰 …我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。」(『隋書俀国伝』より)
ここで言う「維新」の語も「隋書」では「煬帝」に対して使用された例がなく、「高祖」に対してのものしか確認できません。
(以下「維新」の例)
「梁武帝本自諸生,博通前載,未及下車,意先風雅,爰詔凡百,各陳所聞。帝又自糾?前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈?人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(隋書/卷十三 志第八/音樂上)
「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。?于九載,廓定江表,尋以?口滋多,析置州縣。煬帝嗣位,又平林邑,更置三州。既而併省諸州,尋即改州為郡,乃置司隸刺史,分部巡察。五年,平定吐谷渾,更置四郡。…」(隋書/卷二十九 志第二十四/地理上)
この「維新」という用語は「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながる性格のものと言え、自らの治世に対する発言ではないと思われます。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、いずれも新王朝の開祖としての使用例です。このような言葉を「倭国王」が発したのは自らも「天命」を受け「維新」を行った意識があったためと思われ、「隋」の成立の事情について強い関心を持っていたことが窺えます。
さらに「二義」(「天」と「地」)を賞揚に使用する用法も「隋代」では「高祖」に限定して確認できるものであり、「煬帝」の例がありません。(以下に二つほど例を挙げます)
「…時沙鉢略既為達頭所困,又東畏契丹,遣使告急,請將部落度漠南,寄居白道川?,有詔許之。詔晉王廣以兵援之,給以衣食,賜以車服鼓吹。沙鉢略因西?阿波,破擒之。而阿拔國部落乘?掠其妻子。官軍為?阿拔,敗之,所獲悉與沙鉢略。沙鉢略大喜,乃立約, 以磧為界,因上表曰:大突厥伊利?盧設始波羅莫何可汗臣攝圖言:大使尚書右僕射虞慶則至,伏奉詔書,兼宣慈旨,仰惟恩信之著,逾久愈明,徒知負荷,不能答謝。伏惟大隋皇帝之有四海,上契天心,下順民望,『二儀』之所覆載,七曜之所照臨,莫不委質來賓,回首面?。實 萬世之一聖,千年之一期,求之古昔,未始聞也。…高祖下詔曰:「沙鉢略稱雄漠北,多?世年,百蠻之大,莫過於此。…」(「隋書/列傳 第四十九/北狄/突厥[底本:宋刻遞修本]」より)
「…初,上潛龍時,…及此,慶恐上遺忘,不復收用,欲見舊蒙恩顧,具?前言 為表而奏之曰:「臣聞智侔造化,『二儀』無以隱其靈,明同日月,萬象不能藏其?。先天弗違, 實聖人之體道,未萌見兆,諒達節之神機。伏惟陛下特挺生知,徇齊誕御,懷五岳其猶輕?八荒而不梗,蘊妙見於胸襟,運奇謨於掌握。臣以微賤,早逢天眷,不以庸下,親蒙推赤。 所奉成規,纖毫弗舛,尋惟聖慮,妙出蓍龜,驗一人之慶有?,實天子之言無戲。臣親聞親 見,實榮實喜。…」(「隋書/列傳 第十五/宇文慶[底本:宋刻遞修本]より)
上で見るように「徳」が非常に高いことを示す表現は「初代皇帝」に特有のものと思われ、「高祖」が「維新」を行うに足るほど「徳」が高いことをアピールするために使用されたと見られます。
また「大隋禮義之国」という表現も重要であると思われます。これは「大隋」というように「隋」に向けられた言葉であるのは確かですが、それは「煬帝」というより「文帝」に向けられたと考えて然るべきではないでしょうか。
「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北斉」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」なども「隋代」特に「開皇年間」にまとめられたとされています。これは「文帝」治世の業績であり、「煬帝」はそれらを継承したことは確かであるものの、基本的には彼の功績とは言えません。
また「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われるものの、それ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。
「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(隋書卷二十五 志第二十/刑法)
ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。
「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。
その「禮義之国」を造ったのは「高祖」であるわけですから、これを「煬帝」に対するものとははなはだ言いにくいものと思われるわけです。
(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2015/10/13)