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「帝紀」と「列伝」の矛盾について


 すでに「扶余豊」の本来の来倭の年次がもっと遅かったという可能性について考察したわけですが、それは「裴世清」の来倭とは直接関係しないという立場からの議論でしたが、その中でもこの「扶余豊」の来倭は確かに『書紀』にあるような時期ではなく多分十年程度遅かっただろうという指摘をしました。その補論ともなるものを別の観点から考えて見ます。

 『隋書俀国伝』の末尾に「此後遂絶」という文言があります。

「…其後清遣人謂其王曰:朝命既達,請即戒塗。於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。『此後遂絶』。

 ここにいう「絶」とは『隋書』の中でも「通じる」という語と対で使用されている例(「…其後或絶或通…」)があり、明らかに国と国の間の通交に関するものですが、ここではそれが「途絶」したという意味ととられるわけです。しかし、同じ『隋書』の中の「帝紀」部分を見ると「大業六年」(六一〇年)に「倭国」から「朝貢」があったことが記されています。

「六年春正月癸亥朔…己丑,倭國遣使貢方物。」(煬帝紀大業六年記事)

 また『書紀』においても「遣隋使」記事があり(以下の記事)普通に考えるとこれは明らかに「矛盾」といえるものです。

「廿二年(六一四年)六月丁卯朔己卯(十三日)。遣犬上君御田鍬。矢田部造闕名。於大唐。」(推古紀)

 これらの記事の存在は「此後遂絶」という表現にはふさわしくないものであり、この「矛盾」については色々議論があります。
 これについては注意すべきことは「遂絶」という表現がされているのは『隋書』では「帝紀」にはなく、全て「列伝(夷蛮伝を含む)」あるいは「志」の部分であると言うことです。
 『隋書』の中には「遂絶」という表現は計17箇所確認できますが、それらは全て「列伝」と「志」の中にあるものであり、「帝紀」にはただの一例も存在しません。

 そもそも「遂絶」という表現は「時」(年月や時間)の移り変わりを含んだ表現であり、歴史の流れの中で記述されるような内容ともいえます。このような表現は「帝紀」には似つかわしくなかったのではないでしょうか。
 「帝紀」は文字通り「帝」の「年紀」であり、「帝」の治世期間の中で起きたことを年次ごとにいわば「羅列」するという体裁ですから、「過去から現在」までと云うような記述の仕方は「列伝」や「夷蛮伝」など個人や国に焦点を当てた記載の中でこそ有効なものであったと思われます。
 また「帝紀」にはその年次に起きたことを書くという記事の性格上朝貢記事が網羅されていたとして不思議はありませんが、「夷蛮伝」における史料内容はその国との関係を記述する上である意味エポックメーキングなものに限られていたともいえるのではないでしょうか。つまり「列伝」は全ての朝貢記事を記載していないという可能性があることとなります。『俀国伝』と「帝紀」のように「夷蛮伝」では「遂絶」と書かれた後の年次の「帝紀」ではまだ朝貢記事があるという様な矛盾が起きることもあり得ることとなるでしょう。たとえばその国(この場合は「俀国」)との関係に大きな変化などがあった時点の記事はあってもそのような「インパクト」がないような場合は記載されていないという可能性もあることとなります。

 「俀国」の場合は「国交」が始められた時点とその後「天子」を標榜して「宣諭」されるという、友好関係が破綻するような事件の後は(その後その関係を回復すべく「倭国」から「朝貢」があったとしても)『結局は』「遂絶」となったというわけであり、そう考えると、「遂絶」という表現はその前にある朝貢記事の後、つまり「時系列」として連続しているというわけではなく、その国との交渉が「最終的には」絶たれたという意味と捉えるべきこととなるでしょう。
 ではこの「最終」とはどの段階のことを言うのでしょうか。「隋末」でしょうか。そう考えるよりは『隋書』編纂時の段階のことと考える方が正しいといえるかも知れません。
 「此後」という表現には「今に至るまで」という意味が隠されているともいえ、その場合「今」とは『隋書』編纂時点であっただろうと推測されるからです。
 ではその『隋書』の編纂の実年代はいつ頃のことであったのでしょうか。(以下『隋書』編纂に関する記事)

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武五年,起居舍人令狐?奏請修五代史。十二月,詔中書令封彝、舍人顏師古修隋史,緜?數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。十五年,又詔左僕射于志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽同修五代史志。凡勒成十志三十卷。顯慶元年五月己卯,太尉長孫無忌等詣朝堂上進,詔藏秘閣。後又編第入隋書,其實別行,亦呼為五代史志。 天聖二年五月十一日上。御藥供奉藍元用奉傳聖旨,齎禁中隋書一部,付崇文院。至六月五日,?差官校勘,《時命臣綬、臣提點,右正言、直史館張觀等校勘。觀尋為度支判官,續命?鑑代之。仍?出版式雕造。》(以上北宋の天聖年間に『隋書』が刊行された際の跋文)「貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。」(『旧唐書』魏?伝)

 これらを見ると『隋書』の編纂は難航を極めたらしい事が窺え、「武徳」年間に最初に「隋史」をまとめるよう「詔」が出されてから長年月に渡り完成されず、「皇帝」に上梓されたのは「貞観十年」(六三六年)のこととされています。
 つまり「貞観三年」段階で『隋書』を修めるよう詔がくだったと云うわけですが、それ以前の「武徳五年」段階でも「文帝」の治世期間以外の史料がなかったとあるように、「顔師古」は「隋代」全体の資料を入手することができず、「隋史」をまとめることができなかったものであり、その後改めて「再度」同様の「詔」が出され、その後「貞観十年」までの間のどこかで完成したものであり、それが「十年正月壬子,?等詣闕上之。」ということとなったものと思われます。
 つまり「夷蛮伝」を含む「列伝」五十巻はこの段階で皇帝に提出されたものであり、この段階で「夷蛮伝」も既に書かれていたと見られるわけですが、『隋書』という範囲の記事ではあるものの、この「貞観十年」付近までには国交回復が進んでいなかったことの徴証として「此後」という表現が使用されているのではないでしょうか。
 その可能性を強く示唆するものが「中国側史料」において「高表仁」の「来倭」の年次に複数の説があることです。

 「高表仁」の派遣時期については『旧唐書』では「貞観五年」(六三一年)となっているのに対して、『唐会要』では「貞観十五年」(六四一)であり、『冊府元亀』だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど史書によりバラつきがあります。また記事内容についても「高表仁」と「禮」を争った相手が『旧唐書』だけが倭国「王」ではなく、「王子」となっているなど明らかに違いが見受けられます。

「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」(『旧唐書』「東夷伝」)

「貞觀十五年(六四一年)十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(『唐會要』巻九十九 倭國)

「唐高表仁、太宗時為新州刺史。貞觀十一年(六三七年)十一月、倭國使至、太宗矜其路遠、遣表仁持節撫之。浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、由是復絶。」(『冊府元亀』六六四 奉仕部(十三)失指 高表仁)

 『隋書』の記事内容とその編纂に関わる年次の推定から「貞観十年付近」までは国交回復がされていなかったとみたのですから、少なくとも『旧唐書』の示す日付が正しいという可能性はかなり低くなるでしょう。
 これについては『唐会要』でも『冊府元亀』でも末尾に「由是復絶」と書かれており、これは絶えていたものが一度復活したものの「これ」つまり「高表仁」の起こした事件によって再び絶えたという意味に受け取ることができます。このことから「高表仁」来倭の契機となったこの前年の「倭国」からの「遣唐使」は「国交回復」のための使者であったことが知られ、このことからも「使者」の派遣は「貞観十年」付近よりも後であろうと考えられることとなります。
 ところで『書紀』には「高表仁」の来倭記事の前年のこととして「百済」の「義慈王」から子供の「扶余豊」(豊章)という人物の「来倭」(実質的には人質)記事が置かれています。つまり「高表仁」の「来倭」記事と「扶余豊」の「人質」記事は年次として連続しているわけであり、一連のものとして考えるのが正しいと思われますが、それは「扶余豊」の「人質」の年次としても「貞観十年」を下る時期が想定できることを示しています。
 つまり『隋書』の記事の考察からは「扶余豊」の来倭は『書紀』に書かれたような「六三一年」ではなく「11年」程度下った「六四二年」付近であるという可能性が高いと思われることとなるわけです。

 「六四二年」になって、「百済の義慈王」と「高句麗の淵蓋蘇文」との間に「麗済同盟」が締結されます。これは、特に「対新羅」に重点を置いて結成されたもので、相互防衛条約とでも言うべきものであり、互いに軍事行動を起こした際には共同してこれにあたる、という内容であったようです。これにより、直接攻撃の矢面に立たされることとなった「新羅」の「善徳女王」は「唐」に援軍を求め、後に「唐羅同盟」が結成されることとなります。
 このような「百済義慈王」の行動は「倭国」との関係をある程度良好なものにしたからこその行動であったと思われ、「倭国」と「新羅」の結びつきに釘を刺したという意識が彼にあったものと思われます。つまり「新羅」が「倭国」と結託する可能性を排除したからこその行動と思われるわけです。
 そう考えると、その前年付近で「義慈王」の「王子」を「倭国」に質に入れていたとすると理解できるものであり、その意味からも「扶余豊」の「来倭」は「六四〇年付近」と推察され、『書紀』で「扶余豊」の前年記事として書かれている「高表仁」来倭は「貞観十年」(六四一年)とする「唐會要」の記事が注目されます。
 「倭国」はこのとき唐使「高表仁」との折衝に失敗し、「唐」との関係が緊迫化してしまったため国交が途絶え、結果的に「百済」と暗黙的に連合する道を選んだと思われます。「百済」も「唐」との緊張が強まるのを間接的に回避するため「倭国」と連合するという道を選んだものでしょう。


(この項の作成日 2014/11/01、最終更新 2017/11/08)