『隋書俀国伝』に「此後遂絶」という文言がある件について、それが「高表仁」の来倭の時期と関連しており、『唐會要』に言う「貞観十年」付近が最も可能性が高いことを述べましたが、それを補強すると思われるのが「朔旦冬至」の儀式についての考察です。
『書紀』(「斉明紀」)に「伊吉博徳書」からの引用があります。そこでは「遣唐使」として派遣された彼らが「冬至之會」に参加した様子が書かれています。それは『書紀』からも『旧唐書』からも、また「暦」の解析からもそれが「六五九年」であることが確実とされています。つまりこの年は19年に1回という「朔旦冬至」の年であり、それを「皇帝」が国内国外から多くの使者を招集し祝賀の儀を催したと考えられています。そしてこのとき彼ら遣唐使は「蝦夷国」の人を従えて参加したとされ、唐の皇帝から好奇心を以て迎えられたとされています。
ところで「十三世紀」に編纂されたという『佛祖統紀』という書物に以下のような文章があります。
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
この記事によれば「唐」の「二代皇帝」「太宗」の時(在位六四八年まで)に「蝦夷」を引率して遣使したとされています。
この記事自体は後代成立ですから、資料として古いものではありませんが、これは「蝦夷」に関して書かれた部分であり、このような異伝が書かれているのは何らかの徴証となるような(私たちの知らないような)記録が伝わっていたという可能性もあるでしょう。そう考えると、「高宗」の時ではなく(あるいはその時以外にも)「蝦夷」の人が「唐」を訪れていたという可能性があることとなるでしょう。
また「冬至之會」についていうと、この「朔旦冬至」という年次は19年に一回訪れますので、その19年前の「六四〇年」も「朔旦冬至」であり、同様の「冬至之會」が開催されたという可能性があります。
この「六四〇年」という年は確かに「朔旦冬至」の年ですがさらにその日が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」というかなり珍しい日であり、これは「甲子」が「暦」の始まりとして意識されていたことを考えると「六五九年」よりも大々的な催しが営まれたとして不思議はないと思われます。そうであれば「太宗」時点のこととなり、この時点で「倭国」からの使者が「蝦夷国」の人を伴ったとするなら記事と整合します。
つまり「六四〇年」(十一月)に「倭国」からの使者が到着したものであり、その帰国に「高表仁」が同行したと言うことではなかったかと推測でき、結局「高表仁」の来倭は「六四一年」であったとみると整合的であると思われるわけです。
「貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(『唐會要』巻九十九 倭國より)
ここにいう「路遠」という表現も「蝦夷」が念頭にあったという可能性もあるでしょう。
ただし、月でいうとこの『唐會要』の記事は整合していますが、年次が一年異なるように見えます。しかし「高表仁」の来倭に関する複数の記事の中ではこの「唐會要」だけが「月」が書かれており、「十一月」となっています。これは明らかに「冬至之會」の日付である「十一月一日」を示唆するものであり、そう考えるとやはり「冬至之會」への参加が行われたとみるべきであって、書かれた「貞觀十五年」という年次は倭国からの使者が訪れた年にかかるものではなく、本来「高表仁」を派遣した年次を示すものであったのではないかと考えられることとなります。
これに関して『新唐書』を見ると以下のようなことが書かれています。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。…」(新唐書日本伝)
つまり上の記事によれば、「天智」は「蝦夷」を引率した「遣唐使」を即位の翌年派遣したとされています。この点について『書紀』では「六三〇年」の「犬上君」等の遣唐使についてその前年の「舒明」即位と一連のものとして書かれています。
つまり、この「遣唐使派遣」が「六四〇年」のことであり、その前年の「天智」即位と一連であるとすると、『書記』の記事の流れとも整合するといえるでしょう。
また「百済」から「扶余豊」が「質」として来倭したのは、『書紀』では「遣唐使」派遣と同じ年とされており、これを「六四〇年」と見ると、これが「新・倭国王」の即位という状況と関係があるとみるのが相当でしょう。(「伊吉博徳」自身は「高宗」の時代に訪問したことは「百済滅亡」の記事からほぼ確実と思われますが、彼も二回唐へ訪れたという可能性も考えられるでしょう。)
(この項の作成日 2014/11/15、最終更新 2017/11/08)