『持統紀』に「解部増員」の記事があります。
「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」
ここでいう「解部」とは、現在の警察と検察とを兼ねたような存在であり、取り調べや訴訟の裁定などを行なう職掌です。
この「解部」は『大宝令』にも規定されていますが、その地位はかなり低く当時すでに重視されるような職掌ではなかったことが知られます。
それに対してこの(持統)四年(庚寅年)というのが「六九〇年」を指すというのが真実ならば「浄御原朝庭制」では大量に増員されていたこととなります。しかし、そのような大量増員は一見不審と思われるものでした。それは「飛鳥浄御原令」も、それを「准正」としたという『大宝令』も、かなりの部分が「唐制」(『永徽律令』(六五〇年施行))に則っているとされており、この「解部」というのはその「唐制」にはない「職掌」ですから、このような大量増員が「持統朝」の出来事とするのは整合しないと思われたからです。
それに対し、既に見たように「難波遷都」した時点付近で「律令」の制定が措定されています。これは「諸国」(特に東国)に対する支配を強化するために「評制」を施行し「評督」とその上部職掌である「惣領」などを配置し、彼らにより「司法権」「警察権」などの行使も行われるようになった結果、「難波副都」という「中央政府」の「出先機関」の政治的比重が増加し、それら行政執行に必要な人員の「増員」が行われることとなったと考えることができ、その結果「刑部省」の新設ないしはその組織拡大がここで行なわれたものと思料され、「解部」の増員もその流れのものと考えることができます。
この時点で確かに「刑部省」「刑部尚書」(刑部卿)が存在していたことは『続日本紀』の「高向麻呂」の追悼記事の中に現れることでも判ります。(以下の記事)
「和銅元年(七〇八年)閏八月丁酉条」「攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。」
上に見るように彼については「難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也」とあります。この記事からは「難波朝廷」下に「刑部省」が存在しており、「刑部尚書」(刑部省の長官)という役職があったこと判断できます。
(『書紀』によれば彼は「蘇我入鹿」から「山背大兄皇子」を逮捕するよう指示され、それを拒否している記事があり、そのことからも彼が「警察・検察」に関わる職掌であったことは確かと思われます)
『孝徳紀』には「僧旻」と「高向玄理」に「八省百官」制を考案させたという記事がありますが、それが修飾ではなく、実際のものであったと考えられるものであり、このような組織・制度が「律令」なしに存在していたとは考えられないのは当然です。
この段階では「解部」は「忍坂部」(=刑部)として存在していたと考えられますが、「解部」そのものは『筑後風土記』の中で「磐井」の墳墓とされる「岩戸山古墳」の「石人」の説明の中にも出て来ますから、淵源は古いものと考えられ、「六世紀前半」には存在していたと考えられます。
彼らは倭国固有の「法体系」の中で、「探湯」などの「神託」や「拷問」を駆使しながら、「罪人」を逮捕、起訴、取り調べ、その罪状の内容やそれに対応する「罰」の決定とその執行というような一連の流れを行っていたと考えられますが、そのような作業の中身や手順は「唐律」などとはかなり異なり、明らかに「倭国」の固有法に基づくものであったと考えられますから、「百人」という大量採用をした段階では彼らの存在が大きなウェイトを占めていることを示すものであり、そのような現状は「唐」の法令を基準としたはずの『浄御原律令』や『大宝令』には明らかにマッチしない性質を持っています。このような職掌の「解部」という存在の根本規定は、中国の律令のどの時代にもなかったものであり、「倭国的」なものであったと考えられ、その意味からも「解部」の人員を拡大・強化した時期というのは『書紀』にあるような「持統朝」(七世紀末)ではなかったのではないかと考えられ、それ以前の時期に「律令」の存在を措定する必要があると思われます。
具体的に「律令」編纂が行なわれたと推定されるのが、以下のものです。これは「六八一年」の記事として書かれているものであり、同じ年次で書かれている「史書」編纂と共に、従来から「天武朝」における事跡と「信じて疑われていない」ものです。
「(天武)十年(六八一年)春正月辛未朔…
二月庚子朔甲子天皇。皇后共居于大極殿。以喚親王。諸王及諸臣。詔之曰。朕今更欲定律令。改法式。故倶修是事。然頓就是務。公事有闕。分人應行。是日。立草壁皇子尊爲皇太子。因以令攝萬機。
…
丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」
ここで「律令制定」および「史書編纂」という二つの重大な事項を実施することが決定されたようですが、これらを「飛鳥浄御原律令」の制定と『書紀』編纂事業と見るには、その後の『書紀』完成までの期間が長すぎる(「七二〇年」の完成とされる)ことと、『持統紀』の「律令」頒布に関する記述が「簡易」に過ぎる、という一種の「矛盾」が存在しています。
これらの事業は「重大」ではあるものの、同時に「時間」をかけ過ぎてはいけないものであり、「史書」編纂指示から完成まで「四十年」を要したというのはいくら何でも長すぎると考えるべきでしょう。
また「律令」は国家統治の根本であり、その内容は多岐に亘り、冠位制を含む広範な制度の改定・変更を含むと考えられるものであり、そうであれば、(後の『大宝律令』のように)、国内に対する「周知」の徹底を図る各種の施策を伴って当然であるのに、その様な事は一切『書紀』に触れられていません。その意味からも『書紀』の『持統紀』記事は「疑わしさ」に満ちています。
このことは、この段階における「律令編纂」と「頒布」というものが実際に行われたものなのかはなはだ疑わしいと言えるものです。これらについても「解部」の増員同様、これら二つの事業の実施は「別」の時点のものではなかったかと考えられ、それは「難波副都」段階で実施されたと見たとき始めて、納得しうるものとなるのではないでしょうか。
つまりこの「天武十年記事」は「三十五年遡上」した「六四六年」のことではないかと推定されるものです。またそれを受けた「律令」の制定は「六五四年」ではなかったかと考えられます。これは『続日本紀』の『文武紀』記事については「五十七年遡上」の疑いがあるためですが、詳細は別途とします。
またこの「天武十年記事」では、「法式」については「改める」とされるのに対して「律令」は「更に」「定める」とされ、表現が明らかに異なります。律令については「更」つまり新しく定めるというわけであり、これはそれ以前には「律令」そのものがなかったことを示す文言と思われるのに対して、「方式」については「改める」というわけですから、これはそれ以前から存在していたものと考えられるものです。
ここで既に存在しているとされる「法式」がどのようなものか不明ですが、「律令」とは異なる性格の「規則」であり、この「法式」がそれまでの「倭国」における民衆の生活と国家の統治に必要な内容を持っていたものと考えられるものです。この段階で始めて「律令」というものに接したという意味であり、それは「遣隋使」による「隋」の制度等の摂取という段階で学んだことの反映であると思われますから、少なくともこの「難波朝廷」段階がそのような時期まで遡上すると言う可能性を含んでいるものと思われます。
さらにここでは「近江令」の存在も措定されておらず、それらのことからもこれが「天智朝」以前の状態であることを推定させるものでもあります。
これらは「新倭国王」としての即位に引き続くものであり、また前項の「神社改革」と一体を成すものと思料されます。
また、ここで史書が編纂されているとすると、この段階で「神話」も「国定」として形成されたと見られ、今見る神話の原型はこの時点で作られたと見られます。そうであれば、それらはこの時点における「大義名分」確保として書かれたと考えられるものです。
「難波朝廷」の主が「難波皇子」であり、彼が「阿毎多利思北孤」であるとすると、彼の「先皇」つまり「兄王」であった「押坂彦人大兄」に擬された人物が、神話中の最新段階の人物として描かれるはずであり、「建国神話」に描かれた範囲としては「山幸彦」(彦火火出見)までですから、それは「阿毎多利思北孤」を意味するものであることとなると思われます。
(この項の作成日 2013/02/11、最終更新 2015/04/16)