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「久努臣麻呂」の反乱記事について


『書紀』(天武紀)に「天武」に対する「反抗」という記事があります。

(六七五年)四年…
辛巳。勅。小錦上當摩公廣麻呂。『小錦下久努臣麻呂』二人。勿使朝參。
…丁亥。『小錦下久努臣麻呂』坐對捍詔使。官位盡追。」

 これによれば「小錦上當摩公廣麻呂」と共に「小錦下久努臣麻呂」という人物に対して「朝参」を禁じるとされた後、(多分それを告げに来た)使者に対して、「對捍」したとされています。この「對捍」とは「反抗して従わないこと」を意味する言葉ですから、彼は「詔」を伝えに来た使者に対して、指示や命令を無視する態度をとったという事でしょう。
 それ以前の「朝参」を禁止されたというのも「朝廷内」における言動に不穏なものがあったことからの措置ではなかったかと思われますが、さらに明確に「反天武」という立場を鮮明にしたということでしょう。何がその原因となったかは不明ですが、「天武」がその権力を「近江朝廷」から奪取したその過程や彼の出自などに疑問や不審があったのではなかったでしょうか。
 この点については資料もなく「疑問」は消えていないわけですが、とにかく彼については「官位」など彼の宮廷人としての特権は全て剥奪され、「無位」の一般人となったと推量されるわけです。しかしこの翌年「四方大解除」が行われるとともに「大赦」が発せられています。

(六七六年)五年。…
八月丙申朔…
辛亥。詔曰。四方爲大解除。用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。以外郡司各刀一口。鹿皮一張。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稻一束。且毎戸麻一條。
壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。唯既配流不在赦例。是日。詔諸國以放生。

 この「大赦」は「久努臣麻呂」についても適用されたと見られるわけですが、その中の「没官」については「一等」減じられているだけですから「流罪」(推定によれば「遠流」となったと思われます)となったと思われます。ところがその後「天武」の死去に際し再び「久努臣麻呂」が登場します。

(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔辛丑。親王以下逮于諸臣。悉集川原寺。爲天皇病誓願云々。
丙午。天皇病遂不差。崩于正宮。
戊申。始發哭。則起殯宮於南庭。
辛酉。殯于南庭即發哀。當是時。大津皇子謀反於皇太子。
甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
乙丑。諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆■原朝臣大嶋誄兵政官事。
丙寅。僧尼亦發哀。是日。『直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。』次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。
丁卯。僧尼發哀之。是日百濟王良虞代百濟王善光而誄之。次國々造等随參赴各誄之。仍奏種々歌舞。

 ここで「刑官」に関連して誄」を奏しているのは「直廣肆阿倍久努朝臣麻呂」という人物であり、これは上の「官位盡追」されたとされる「小錦下久努臣麻呂」と同一人物と思われるわけです。その官位は「直廣肆」とされており、これは「剥奪」される前の官位である「小錦下」とほぼ同じレベルです。

 後の「養老令」を見ると「詔使」に対する反抗は「極刑」(「死刑」)が定められており(「絞」つまり「絞首刑」とされる)、ここで「官位盡追」とだけ書かれていることがそもそも不審といえます。これと似た例としては「元正」天皇の時代の「丹比三宅麻呂」と「穂積老」の両名の例があり(彼らの場合は「謀反」とされこの場合は「斬刑」のはずであった)、彼らは当時皇太子であった「聖武」の助命措置により一段緩められ、「流罪」となったと書かれています。この「久奴臣麻呂」についても誰かが助命嘆願したのかもしれません。
 「穂積老」の場合「十一年後」には「留守官」として(しかも同じ官位である「正五位」として)復帰しています。この「久努臣麻呂」もこの「誄」段階で「十一年」経過していることなどから、「穂積老」の例のように復帰が認められていたということもありそうですが、それよりは「穂積老」の場合はその「聖武」の時代へと変わったことが重要であったと思われるのに対して、ここでは「天武」の死去という事態により「流罪」となっていた人物たちが一斉に復帰したのではないかと思われます。つまり「倭国」では「王」の交代の際には「大赦」が行われたものであり、「流罪」についても免罪され元の官位に戻される措置があったものではないでしょうか。
 ただし、このとき彼は「刑官」を代表して「誄」を奏しており、そのことから「刑官」の長(あるいはその「代理者」)として存在していたと認められますが、その様な事がありうるのか大変不審と思われます。つまり自分が「反抗」を行った相手である当の主君の葬儀に、いくら「復権」したと言っても「誄」を奏するというのも考えてみれば不審ではないでしょうか。

 また、この「誄」を奏している段階では「阿倍氏」を名乗っていますが、このような「氏」は、以前はともかくこの時代は必ず「勅許」を得る必要があったとみられますが、「倉梯麻呂」「御主人」などの台頭により「阿倍氏」の朝廷内における地位が上がったことから同族の者達が自分たちにも「阿倍氏」を名乗ることを認めて欲しいという例が見られるなど、要望が高まった流れがあったと見るべきであり、その意味で「復権」と同時に「阿倍姓」を名乗りたいと要望して、それが「天武」の後継王権により認められたこととなりますが、そのような状況があったと見ることができるでしょうか。
 さらにまた彼は、「臣」から「朝臣」へと「姓」の改定の適用も受けているようですが、これも「勅許」を得る必要があり、それも同様にかなえられたであろうかという点が疑問として起こるわけです。これも「天武」死去後に適用されたものなのでしょうか。これを不審とみればこの両記事には明らかな「食い違い」があり、それを整合的に理解するためには記事配列そのものを疑う必要があると思われ、実際にはもっと年次として間隔があったとみるべきでしょう。

 ところで、上の「誄」時点では「刑官」など「官」をその職掌区分とする体制があったように受け取れるわけですが、『書紀』内の「官」を渉猟すると、「馬官」「鳥官」「法官」「神官」等が確認できますがこれらはかなり古い時代の記事にみられます。また、『続日本紀』には「難波朝」には「衛部」「刑部」などがあったとされますから、この時点では「部」というものが「官僚制」の部門として存在していたように読み取れます。しかしまた「前期難波宮」の遺跡からは「陶官」という文字が書かれた「木簡」が発掘されており、この「官」と「部」がどちらが先行するのかが問題となるでしょう。
 「〜官」という職掌区分は「隋・唐」にはありませんでしたが、それは「部」も同様であり、これは「半島」にその起源を持つものと見られるわけです。そうなるとその前後関係はかなり複雑ですが、「衛部」が「五衛府」など後の「衛府」制と関係しているとするなら、「天武」の葬儀では「衛府」として現れるところを見ると「難波朝」では「部」であったものが「天武」の時代には「官」となったというように、「部」から「官」へと変遷たものとみられますが、さらに「大宝令」により「省」へと発展したこととなり、さらにそれは直前の「官制」」ではなくずっと以前の「部制」を下敷きにしたものであったという可能性が考えられるでしょう。つまり「新日本国王権」の制度はその直前の制度を継承したものではなく、「難波朝」時点までその起源を遡上するものではなかったかと思われるわけです。


(この項の作成日 2017/07/07、最終更新 2017/07/07)