ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:

「神戸田地」の増加について


 『持統紀』には「神戸田地の増加」という記事があります。

「(持統)四年春正月戊寅朔丁酉庚子条」「班幣於畿内天神地祗。及増神戸田地。」

 ここでは、「神戸」(神宮や神社などの封戸)やその所有する田地を増加したとしていますが、それと一見反すると思われる記事を載せているのが『常陸国風土記』です。

 「美麻貴天皇之世 大坂山乃頂爾 白細乃大御服々坐而 白桙御杖取坐 識賜命者 我前乎治奉者 汝聞看食国乎 大国小国 事依給等識賜岐 于時 追集八十之伴緒 挙此事而訪問 於是 大中臣神聞勝命 答曰 大八島国 汝所知食国止 事向賜之 香島国坐 天津大御神乃挙教事者 天皇聞諸即恐驚 奉納前件幣帛於神宮也 神戸六十五烟 本八戸 難波天皇之世 加奉五十戸 飛鳥浄見原大朝 加奉九戸 合六十七戸 庚寅年編戸減二戸 令定六十五戸 淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来修理不絶」

 ここには「香島神宮」についての縁起由来が書かれており、その中に「神戸」の戸数の変遷が書かれています。
 それによれば、「本八戸」であったものが、「難波天皇の世」に「加奉五十戸」となり、その後「飛鳥浄見原大朝」に「加奉九戸」され、「庚寅年」には「編戸減二戸」となり、その後「令定」として「六十五戸」となったとされています。
 つまり、「庚寅年」には「減戸」つまり「減らされている」というわけであり、これは『持統紀』の上の記事と同じ年次の記事と考えられますが、この記事では「増加」しているはずの「神戸」が「常陸」では減らされているわけですから食い違っています。
 この『書紀』の記事がその前段にあるように「畿内」に限定した記事であったとしても、「畿内」と諸国で全く対応が異なるというのも理解しにくいところです。

 この『常陸国風土記』の原資料となったものは「七世紀初め」には既に成立していたものと見られ、それを原資料として「八世紀」になってから成立したものと考えられます。
 実際に大きく「加増」されているのは「難波天皇」の時代とされていますが、そこでは「加増」の戸数として「五十戸」とされ、これは明らかに「五十戸制」に関連していると考えられますので、「六世紀末」の「遣隋使」によって得られた「隋制」によるものであるとみられ、「阿毎多利思北孤」の朝廷の時代であると推定されます。
 さらにこの『常陸国風土記』の記事は全て「時系列」に沿っていることが推定され、それは上の記事の最後に書いてある「淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来修理不絶」という段階まで時系列に組み込まれていると考えられます。
 つまり、この記事は「美麻貴天皇之世」に始まり、「淡海大津朝」で終ると考えられるわけです。このことは(当然)「令」と「淡海大津朝」との間の前後関係においても有効であると考えられ、これも「時系列」に沿ったものであることと考えられます。
 つまり「難波天皇の世」→「飛鳥浄見原大朝」→「庚寅年」→「令」が出された年→「淡海大津朝」という時系列が想定されるものであり、これは明らかに通常の理解とはかなり異なるものです。
 この中の「定点」と云えるのは「五十戸」制となった年であり、また「庚寅年」という年と、「令」が出されたという年があります。それらを含めて考えると、「庚寅年」というのが「六九〇年」と考えるべきなのかが問題となります。それは『播磨風土記』の記事との整合性の問題です。
 『播磨風土記』には「上野大夫」関連の記事が見られます。

「越部里旧名皇子代里 土中々 所以号皇子代者 勾宮天皇之世 寵人但馬君小津 蒙寵賜姓 為皇子代君而 造三宅於此村 令仕奉之 故曰皇子代村 後至上野大夫結三十戸之時 改号越部里 一云 自但馬国三宅越来 故号越部村」

「少川里高瀬村豊国村英馬野射目前檀坂御立丘伊刀島 土中々本名私里 右号私里者 〓志貴〓島宮御宇天皇世 私部弓束等祖 田又利君鼻留 請此処而居之 故号私里 以後庚寅年 上野大夫 為宰之時 改為小川里 一云 小川 自大野流来此処 故曰小川」

 これらの記事によれば「上野大夫」は「御子代」(皇子代)を止めて「越部村」という一般名詞にしたという訳であり、また「私部」という一種の「御名部」に基づく里名を変更させています。そのような「御子代」「御名部」などを止めたというのは「改新の詔」に相次いで出された詔の中にあることですから、年次としても接近していると思われますが、「改新の詔」はその内容の分析からそれが出されたのは遅くとも「七世紀初め」ではないかと考えられ、「隋」が「煬帝」の治世を迎え、「郡県制」を復活させた時点以降と思われます。
 またここでは「三十戸」を「結ぶ」という表現が見られますが、この「結ぶ」というものは「新たに三十戸を一つのつながりとする」という意にとられ、それは「八十戸制」から「五十戸制」への切替え時に起きた事例であると考えると整合するものと思われます。元々「八十戸」だったものを「五十戸制」に変更する際に最も蓋然性の高い方法は、単純に分割して「五十戸」の「里」を造り出す方法です。これを行うと「三十戸」というものが必然的に一つのグループとして成立します。このような背景の元に「三十戸を結ぶ」ということとなったとすると、それもまた「七世紀初め」という時期を想定すべきものと言えるでしょう。
 『隋書俀国伝』によれば「開皇二十年」とされる「遣隋使」が「倭国」内において「八十戸制」が施行されていると思われる事を述べています。しかしこれはすでに見たようにその時期をさらに遡上する時点の事実と考えられ、「遣隋使」が始めて派遣された「開皇の始め」以前と推察され、それを考慮すると必然的に「五十戸制」の導入はそれ以降至近の時期が想定でき、「五九〇年」付近の出来事ではなかったかと考えられることとなります。
 さらにその「上野大夫」は上に見るように「庚寅年」には「宰」であったとされていますが、この「庚寅」という干支の表す年次も同様に「七世紀初め」まで遡上する事とならざるを得なくなるものと思われ、これは「六九〇年」ではなく「六三〇年」を表す干支ではないかと考えられることとなります。それはまた「惣領」と「宰」(国宰)の同時性という点でも、「七世紀初め」という時期を支持するものです。
 
 以上を考えると「難波天皇之世」とは「六世紀末(五九〇年付近か)」付近であり、また「庚寅年」は「六三〇年」となると思われます、また「律令」が定められたとされていますが、これは「飛鳥浄御原律令」を指すものではないかと考えられ、『大宝律令』の制定年次である「七〇一年」から干支一巡遡上した「六四一年」が最も考えられますが、「五十七年遡上」という可能性もあり(後述)その場合は「六四四年」となると思われます。
 つまり「飛鳥浄見原大朝」という表記が示す年次は少なくとも「庚寅年」以前ですから「六三〇年」を遡上する年次が想定されるものです。これは「国号変更」と「宮殿名」がセットで『書紀』に出てくることを考えると、「朱鳥」改元年として想定される「六二六年」が「飛鳥浄見原大朝」の成立年次として推定できるものと思われます。また「淡海大津朝」については「六四一年以降」の成立となると思われます。
 また、ここでは、「利歌彌多仏利」の「朝庭」を「飛鳥浄見原大朝」と呼称していると考えられる訳ですが、それは彼の本拠地が「筑紫」の飛鳥(阿須迦)であった事を示すものであると思われ、「朱鳥」改元も「筑紫」で行われたことを推定させるものです。

 また「道光律師」の遣唐使帰国に関する記録(『三国仏法傳通縁起』)の検討から「浄御原天皇」により彼は派遣されたとされていますが、『書紀』の「白雉年間」(六五三年)の遣唐使派遣記事中に彼の名前があることから、この時の「倭国王」について「浄御原天皇」と呼称していることとなりますが、それは『常陸国風土記』の記事内容と「食い違う」というものではありません。「令」つまり「律令」の「神祇令」ないしは「戸令」によって「神戸」の戸数が定められたのが「六四九年」であったとして、その時点の「朝廷名」がないのはその前の朝廷と変化がないからと考えられ、この時点またそれ以降も「飛鳥浄御原朝廷」が継続していたことを示すと思われるからです。
 
 また「天武」の葬儀と思われる中には「民官」「刑官」などの事を「誄」するという場面が出てきます。

「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅条」「僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。」

 この時点で「刑官」「民官」が出現します。さらにこれを遡る時期に各種の「官」が『書紀』に出てきます。 『書紀』によれば「馬官」「鳥官」「法官」「神官」等の官職があったとされています。
 一般には「民部省」の前身が「民官」であり、「刑部省」の前身が「刑官」であるとされています。確かに律令制のもとに存在していたのは「民部省」であり「刑部省」でした。しかし、『公卿補任』や『続日本紀』によれば「難波朝廷」時代に「刑部尚書」や「衛部(尚書)」が存在していたようです。これらからは「部」を省名とする官僚機構が存在していたことが示唆されますが、そのようなものが「難波朝廷」時代に存在するなら、「民官」や「刑官」はさらにそれを遡る時代に存在していたこととなるでしょう。
 それを考えると、「天武」の葬儀に「民官」「形官」が現れる事は「矛盾」であることとなります。つまりこれら『天武紀』記事については「年次移動」されていると考えざるを得ないものであり、実際には「七世紀」の前半がその実年次として想定されるものではないでしょうか。


(この項の作成日 2013/02/11、最終更新 2015/06/06)