ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:

『天武紀』の「新羅王」死去記事の存在


 すでに『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去記事について、それが実際には「七世紀半ば」の「新羅王」である「善徳女王」と「真徳女王」の死去記事であることを推定しました。このことはそれ以前の「新羅王」死去記事についても実際とは異なることを示唆します。それを以下に確認してみます。

 『書紀』によれば(以下のように)「天武十年」に「新羅王」死去を伝える記事があります。

(六八〇年)(天武)九年…
十一月壬申朔。日蝕之。

乙未。新羅遣沙■金若弼。大奈末金原升進調。則習言者三人從若弼至。

(六八一年)十年…
六月己亥朔癸卯饗新羅客若弼於氣紫。賜祿各有差。

秋七月戊辰朔。…
辛未。小錦下釆女臣竹羅爲大使。當麻公楯小使。遣新羅國。是日。小錦下佐伯連廣足爲大使。小墾田臣麻呂爲小使。遣高麗國。

丙子。詔三韓諸人曰。先日復十年調税既訖。且加以歸化初年倶來之子孫。並課役悉兔焉。

九月丁酉朔己亥遣高麗。新羅使人等。共至之拜朝。

冬十月丙寅朔。曰蝕之。
癸未。地震。
新羅遣沙喙一吉■金忠平。大奈末金壹世貢調。金銀銅鐵。錦絹。鹿皮細布之類各有數。別獻天皇。々后太子金銀。錦。霞幡。皮之類。各有數。

是月。天皇將蒐於廣瀬野。而行宮構訖。裝束既備。然車駕送不幸矣。唯親王以下及郡卿。皆居于輕市。而検校裝束鞍馬。小錦以上大夫皆列坐於樹下。大山位以下者皆親乘之。共隨大路自南行北。新羅使者至而告曰。國王薨。

十二月乙丑朔甲戌小錦下河邊臣子首遣筑紫饗新羅客忠平。

(六八二年)十一年春正月乙未朔癸卯。大山上舍人連糠虫授小錦下位。
乙巳。饗金忠平於筑紫。

二月甲子朔乙亥。金忠平歸國。

 これら「新羅」からの使者をめぐる記事をみると、「新羅国王」の「薨去」を告げたという記事が「是月条」に記されており、外国使者の到着という重要事項であり、且つ「国王」の死去という重大事が伝えられているにもかかわらず、「日付」が曖昧というのはそもそも不自然です。またこの「使者」は文脈上「沙喙一吉■金忠平。大奈末金壹世」と同一と思われますが、彼らは「調」を貢ずるためにきた「進調使」のはずであり、「国王」の死去を伝えに来たわけではないと考えられます。(実際に多量の「調」を貢上しています)それならば別の使者が来たのかということになりますが、文章からはそのような気配は感じられません。
 また彼らに対して「倭国」サイドも「進調使」としての通常の対応をしているように見えます。特に「慰霊」の詔が出されているわけではありません。また「金忠平」たちが「喪使」であるなら当然彼らの帰国に併せ(同時ないし少し遅れて)「弔使」が派遣されるべきですが、そのような記録もありません。(それ以前に派遣されている「釆女臣竹羅」達は「遣高麗使」と同時に派遣されており、これは通常の外交儀礼を行うためのものであるのは確実であり、「弔使」でないとみられます。

 「壬申の乱」以降「新羅」と「倭国」の関係は良好であったはずであり、「新羅国王」(ここでは「文武王」となる)の死去という重大事に接したならば「弔意」の一つも表さないことなど考えられないことでしょう。このことは、これら「不審」に満ちた「新羅王死去」記事の性格として、本当にこの年次の記事であったのか、本来別の年次として書かれるべき記事ではなかったかという事が疑われます。
 この記事では「新羅国王」の死去の詳細について何らの情報も書かれていませんが、死去があまり時を置かず伝えられたとすると、「冬十月丙寅朔…癸未。」という日付に「筑紫」に到着したらしいことから少なくともそれ以前(つまり「春から夏」付近)の時期に「新羅国王」が死去したことが推定できます。確かに「文武王」の死去は「七月」ですから一見整合しているようですが、そうであるなら「十月」に到着した「金忠兵」達が「進調使」であるはずがないといえます。
 すでに『持統紀』に記された「新羅王」の死去記事について、それが「善徳女王」についてのものという可能性を指摘したわけですが、当然それ以前の「新羅王」がこの『天武紀』の「死去」した「新羅王」ということとなるわけであり、そうであるならそれは「真平王」である可能性が高いと推量します。

 「真平王」は六三二年一月死去とされ、半年ほど外交活動を停止後隣国である「倭国」に「国王」の死去を告げたとすると「十月」頃の使者到着は不審ではありません。

「五十四年 春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔 贈左光祿大夫 賻物段二百 【古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶】」(『三国史記新羅本紀』より)

 すでにみたように「新羅」においては「国王」が死去した場合、通常の「朝貢」などの儀礼を停止する期間は数ヶ月以上一年未満程度と思われ、ある程度長い「服喪期間」が設定されていたと思われますから、その意味でも一月の死去と十月の喪使は不自然ではないものの、それが「七月」に死去した後三ヶ月後の「進調使」であったとするなら、明らかに不自然といえるでしょう。
 これを「文武王」の死去記事とみると不自然であるのに対して「真平王」に関係した記事とみたとき違和感はなくなるものであり、『持統紀』『文武紀』記事と同様「年次」移動が推定されることとなります。その場合「移動」された「年数」は「六八一」―「六三二」=「四十九年」という年数が措定され、『持統紀』記事における推定移動年数(四十七年)とほぼ同じであることもまた「年次移動」の傍証ともいえるでしょう。

 但しこれを遡るものは確認できません。「文武王」の前王である「金春秋」の死去はちょうど「半島」で「百済」「高句麗」の存亡をめぐって「倭国」を含む各国が熾烈な戦いの最中の時期であったものであり、「倭国」は当時「敵国」であったこととなりますから、当然のこととして「倭国」に「喪使」が派遣されるというようなことはなかったと推定され、そのためその事実が『書紀』の原資料(『日本紀』か)にも記録されなかったものであり、それを『書紀』の記事として反映させる必要性もなかったものです。そのような事情からこれ以前の「新羅王」の死去記事がみられないとすると理解できるものといえます。


(この項の作成日 2017/05/10、最終更新 2017/05/10)