『持統紀』と『文武紀』に、それぞれ「新羅王」の死去を伝える使者の記事があります。
(一)「(六九三年)七年…二月庚申朔壬戌。新羅遣沙■金江南。韓奈麻金陽元等來赴王喪。」
「同年三月庚寅朔。…乙巳。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。勤大貳大伴宿禰子君等。及學問僧弁通。神叡等■綿布。各有差。又賜新羅王賻物。」
(二)「(大寳)三年(七〇三年)春正月癸亥朔。…辛未(九日)。新羅國遣薩■金福護。級■金孝元等。來赴國王喪也。」
「(同年)閏四月辛酉朔。大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩■金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。…」
これらの記事については一般に(一)が「神文王」、(二)が「孝昭王」の死去を知らせる記事と理解されています。
(一)では死去した年次は不明ですが、おそらくその前年の「六九二年」であろうと理解されており、この年次に死去した「新羅王」としては「神文王」しかおりませんし、(二)では「七〇二年」の死去と考えられますから、これもまた「孝昭王」以外いないと(「安易」といって悪ければ「素直」に)考えられてきていたようです。しかし、簡単にそう断定していいのかというといささかの不審があるように思えます。
たとえば(一)の場合は、彼(神文王)は『三国史記』によれば「六九二年七月」に死去したと書かれています。
(『三国史記』)「(神文王)十二年(六九二年)…秋七月王薨諡曰�~文。葬狼山東。」
この死去時点から数ヶ月して「喪使」が倭国に訪れたというわけです。しかし、この『持統紀』の「喪使」の直前には「別」の「新羅」からの使者が「来倭」している記事があります。
「(持統)六年(六九二年)…十一月辛卯朔戊戌条」「新羅遣級■朴億徳。金深薩等進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。務大貳川内忌寸連等祿。各有差。
辛丑。饗祿新羅朴憶徳於難波舘。」
彼等は「十一月」に来倭したわけですが、この時の出発が「七月」以前、つまり「神文王」の死去以前であったとは考えにくいものです。「新羅」と「倭」の間の通交にそれほど時間はかからないと考えられるからです。
しかも、彼らは「新羅王」の死を伝えるために来た訳ではなく、この記事では「進調」と書かれていますから、あくまでも「通常」の儀礼的外交を行なったと判断できます。
通常「国王」が死去した場合、「喪」に服す期間が設定され、その期間は「諸儀礼」は停止されると考えられますから、少なくともそのような時期に「倭国」に「進調」など「通常儀礼」のために使者が派遣されるというようなことがあったとは考えられないこととなります。その「服喪」期間の長さは、『三国史記』では約一年間となっているようです。例えば「七世紀前半」に死去した「真平王」の場合を見ると、正月に死去した後あまり日を措かず「唐」に「喪使」を派遣したらしいのを別とすると、「唐」へ「朝貢」としての使者を派遣したのが十二月と書かれています。
(『三国史記』)「(真平王)五十四年春正月 王薨諡曰眞平葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百…」
(同上)「(善徳王)善�コ王立…元年二月 以大臣乙祭�ハ持國政…十二月 遣使入唐朝貢」
このように通常の「朝貢」などの儀礼を停止している期間は数ヶ月以上一年程度と考えられ、相当程度長い「服喪期間」が設定されていると見られます。
そう考えると、この「十一月」の「新羅使」と、それに引き続き(翌々月)「来倭」した「喪使」である「新羅使」という組み合わせは「神文王」の死の状況とは全く整合しないと言うこととなるのではないでしょうか。
また、(二)の場合、「新羅使」が持参した「表」の中で「新羅王」について「去年」の秋から具合が悪かったが、「今年」の春になって死去した、という意味の事が記されていたようです。これについて「大系」の「注」では『この表は、正月に来着した使者が持参したものであるから、「去秋」は七〇一年、「今春」は七〇二年をいうが、七〇二年七月に没したとする三国史記新羅本紀の記述と異なる』とされ、疑義を呈しています。
つまり「孝昭王」の死去した年次及び季節として以下のように『三国史記』に書かれたものと、「新羅使」が持参した「表」に書かれた内容が異なっているわけです。
(『三国史記』)「(孝昭王)十一年 秋七月 王薨諡曰孝昭 葬于望�コ寺東 舊唐書云長安二年理洪卒 諸古記云壬寅七月二十七日卒 而通鑑云大足三年卒 則通鑑誤」
これは「矛盾」であり、一種「謎」のわけですが、これはそのまま「謎」として未解明のままとなっているようです。
ところで、(一)ではこの「新羅王」は「春」に死去したとされています。『三国史記』によると「春」に死去した「新羅王」は以下の三名しかおりません。(ただし七世紀以降)
(A)「(真平王)五十四年(六三二年)春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百 古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶」
(B)「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克 八日 王薨 諡曰善�コ 葬于狼山 唐書云 貞觀二十一年卒 通鑑云 二十二年卒 以本史考之 通鑑誤也」
(C)「(真徳女王)八年(六五四年)春三月 王薨 諡曰眞�コ 葬沙梁部 唐高宗聞之爲擧哀於永光門 使太常丞張文收持節吊祭之 贈開府儀同三司賜綵段三百 國人謂始祖赫居世至眞�コ二十八王 謂之聖骨 自武烈至末王 謂之眞骨 唐令狐澄新羅記曰 其國王族 謂之第一骨 餘貴族第二骨」
『続日本紀』に書かれた、「新羅使」が持参した「表」の内容を信憑するとした場合、上の三名の「新羅王」のいずれかの記事が「混入」ないしは「偽入」(意図的に挿入すること)が行なわれたのではないかという疑う余地が生じます。
これは(一)の記事にもいえることであり、この「新羅王」が「神文王」とは考えにくいとすると、(二)と同様他の時代の「新羅王」に関する情報がここに書かれているという疑いがあるといえるでしょう。
この場合は「十一月」(調使派遣)以降「二月」までの間に死去した「新羅王」を検索することとなりますが、『三国史記』にはそのような例についてもやはり上の(二)の場合の「春」に死去した三名以外確認できません。つまりこの三名のいずれかが(一)と(二)つまり『持統紀』と『文武紀』に書かれた「亡くなった新羅王」である可能性が高いものと推量します。
(二)の場合「新羅」からの喪使の呈上した「表」によれば「七〇二年」の「春」に死去したことについて翌年の正月に伝達されていることとなります。これは「服喪期間」中対外活動を停止していたとするとそれほど不自然ではないでしょう。しかし、(一)の場合は「十一月」の使者が知らなかったと想定した訳ですから、「死去」したその直後に「喪使」が来倭したこととなり、この両者には違いがあることとなって不自然です。
この事情を加味して上の三名の「新羅王」の内、該当する可能性のあるものを推定すると、「善徳女王」の死去に関する事情が注目されます。
「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克。八日王薨諡曰善�コ。葬于狼山。唐書云貞觀二十一年卒。通鑑云二十二年卒。以本史考之通鑑誤也。」
「善徳女王」の死去は上の死去した年次の『三国史記』の記事内容を見ても、当時の「新羅」国内の政治情勢の変化と何らかの関係がありそうであり、明らかに「急死」であったと思われます。
推測するに、「善徳女王」は「高句麗」と「百済」の軍事的結合である「麗済同盟」の脅威から逃れるために当初「倭国」に対して援助を考えていたのではないかと考えられ、それがうまく行かないとなって始めて「唐」に接近していったものと見られます。つまりこの段階では「唐」「倭」の両方に「援助」を試みていたと考えられるでしょう。(これは『三国史記』には書かれていません。それは『三国史記』という史書の性格に拠るところが大きいでしょう。そこでは「唐」との関係を重視し、「倭」を軽視ないし「無視」するという点で基本線が引かれています。)しかし、「唐」からは「援助」が欲しければ「唐」から「男王」を迎えるようにという「内政干渉」があり、これを受け入れなかったことで、「唐」に支援を仰ぐべきという国内勢力との間に緊張関係ができていたと考えられます。このことから、そのような勢力に対抗する意味でも、「倭国」への関係を持続させるために「調使」が送られていたものと思われ、そのような中で「反乱」が起き、そして彼女は(原因不明ではありますが)死去したものと見られます。そしてこの時点以降「新羅」の方向性が「倭国」から「唐」へと明確に切り替わることとなったものと見られます。
「倭国」は「新羅」が「唐」と接近するらしいことを聞くと、自らも「高表仁」の一件以来断交状態であった「唐」との関係を正常化するのに「新羅」を仲介者として利用しようとしたもののようです。
『旧唐書』には「六四八年」になって「新羅」を通じて表を提出し「起居」を通じることとなったという記事があります。このことは「唐」と「新羅」の接近についての正確な理解が欠けていたことを示すものであり、外交について拙劣であったといえるでしょう。
また、『三国史記』によればこの時「新羅」は「唐」にも同様に「二月」に「喪使」を急派したらしく以下の記事があります。
(『三国史記』)「二月…唐太宗遣使持節 追贈前王爲光祿大夫 仍冊命王爲柱國封樂浪郡王」
つまり、「唐」はすぐに次代の「真徳女王」を「新羅国王」と認め、「楽浪郡王」に封じています。これは「喪使」が派遣されたことに対する反応と考えられ(これは「高句麗」の存在を危険視している現れといえます)、そうであれば「倭国」と「唐」へ同じ月(二月)に使者が派遣されたこととなって、外交活動としては整合すると言えるでしょう。
『書紀』によればこの「善徳女王」の時代には「新羅」との交流は活発であり、頻繁な「遣新羅使」「新羅使」の往還が見られます。しかしそこには「死去」記事がありません。
この時代の「新羅」との友好関係を考えると、「国王」の死去を知らせる「喪使」が派遣されないというのは、明らかに不審であり、それを考えると、本来この「六四七年」の年次付近に「死去」と「喪使」記事が存在していたことが想定できます。これが『持統紀』に移動して書かれてあると考える事ができるのではないでしょうか。
こう考えると、(一)の「新羅使」記事については本来の年次から「四十六年」という年数が移動されていると考えられる訳です。
このように、『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」を指すとすると、『文武紀』の「新羅王」はその次代の「真徳女王」を意味すると考えざるを得ません。
「真徳女王」についても上に見たように「春」に死去したとされていますからその意味で違和感はありません。彼女の場合も「善徳女王」の場合と同様、『書紀』の『孝徳紀』には「新羅」からの使者記事そのものは見られるものの、「新羅王」の「死去」を知らせるものはありません。これもやはり当時の「倭国」と「新羅」の関係から考えて不審であり、「記事」が移動されている「徴証」と言えるでしょう。
そう考えると、(二)の記事については本来の年次から「四十八年」という年次を隔てて移動されていることが想定されます。
このように両記事では本来の年次からの移動年数として異なる数字が想定されるわけですが、それはこれらの記事が現実の「新羅王」の死去というある意味「定点的」情報に同一化しなければならなかったという「やむを得ない」事情があったからであり、その移動はある意味「強制的」であったからと思われます。本来は他の記事同様(一)については「四十七年」、(二)については「五十七年」という年次の移動が措定されるべきであったと思われますが、それが適わなかったということではないでしょうか。
ただし、以下の記事が「墓碑」と整合するということから記事の正確性は担保されているという考え方もあり得ます。
「文武四年(七〇〇)十一月壬午。新羅使薩■金所毛來赴母王之喪。」(『続日本紀』)
この記事は一九四二年に発見された「慶州皇福寺」の石塔の金堂舎利荘厳具が入れてあった外函に「孝昭王・神文王」と共に「神文王后」が葬られたことが書かれている内容と同一であり、矛盾はありません。(六月死去と書かれています)その意味では「年次」を移動して書かれていると言うことではないともいえますが、この直前に「新羅」へ派遣した使者が帰国した記事があります。(以下のもの)
五月辛酉。以直廣肆佐伯宿祢麻呂。爲遣新羅大使。勤大肆佐味朝臣賀佐麻呂爲小使。大少位各一人。大少史各一人。
冬十月…癸亥。直廣肆佐伯宿祢麻呂等至自新羅。獻孔雀及珍物。
彼らは新羅使の帰国の19日後に「母王」の「喪」を知らせており、明らかに同行したものと思われるものの、新羅に滞在している期間は通常の外交儀礼が行われていたことを示唆します。しかし当時の情勢では国王やその母などの死においては一定の服喪期間があったはずであり、また日本からの使者は「弔使」を派遣するため急ぎ帰国する必要があったはずと考えれば、上の記事は不審といえるでしょう。
更にこの記事も実際には六十年程度の移動があるとした場合整合する記事は『三国史記』には存在しませんが、それはこの「母王(神文王后)」の死に関しても同様であり、やはり記事がありません。今後墓誌などが発掘されるなどの考古学的史料が揃わない限り、可能性は排除できないといえます。
またこの両「新羅王」の死去記事はすでに述べた「田中法麻呂」の記事と接近した年次に存在しており、その「法麻呂」記事に移動が考えられていることを踏まえると「新羅王」記事についても移動が考えられて当然ということとなります。上に行った考察は別の観点からその移動が実際にあったことを示すものと思われるわけです。その想定される移動年数が「田中法麻呂」の場合と接近しているのも偶然ではないこととなるでしょう。
(この項の作成日 2013/03/09、最終更新 2019/11/03)