ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:

「筑紫史益」に対する「顕彰」の詔について


 『持統紀』の「年次移動」を確認しているわけですが、その『持統紀』の中に、或る「太宰府官人」について長年の勤続を顕彰する詔が出ています。

「(持統)五年(六九一年)春正月…
丙戊 詔曰 直廣肆筑紫史益 拜筑紫大宰府典以來 於今二十九年矣。以清白忠誠不敢怠惰。是故賜食封五十? ?十五匹 綿二十五屯 布五十端 稻五千束。」

 この「詔」によれば「筑紫史益」は「太宰府典」以来「二十九年間」勤めた、と書かれています。つまりこの人物は「普通」に考えると「六六二年」に筑紫で「典」という職掌に付いて以来「二十九年」の間「不敢怠惰」とされていますから「精勤」つまり「無遅刻無欠勤」であったものでしょう。しかしこの「年次」についても「移動」の対象である可能性があり、その場合この「詔」は「五十年」程度の遡上を措定すると「六四一年」付近で出されたこととなります。

 既にみたように「唐」においては「戊寅元暦」における「甲子朔旦冬至」の儀式が行われたものとみられ、それへの参加のため派遣した遣唐使の帰還に「高表仁」が同行したのは「六四一年」であったと推量され、それに併せ「筑紫大宰府」の機能強化が行われたと考えると自然です。
 既にそれ以前から「倭国」は「副都」を「難波」に設け「遷都」していたものであり、その分「筑紫」の「大宰府」の外交機能などはかえって重要性が増したものと推察され、この時点で「唐」との国交の回復を目指し、そのために外交の玄関というべき「大宰府」について人員の増加等体制強化が図られたものと推察します。
 「筑紫史益」はこの段階で「太宰大典」としての勤務の永きを顕彰されたというわけですが、彼は機能強化した大宰府を代表する官人であったのかも知れません。
 つまりここで彼が「顕彰」された理由はいわば「永年勤続」というわけですが、それはただの「永年」ではなく、「太宰府」の体制が本格化した時点からの「永年」であり、記念すべき人物であったという可能性があると思われます。

 ここで彼は「二十九年間」の勤続を顕彰されているわけですが、その「二十九年」という年数は何を意味するのでしょう。
 「二十年」とか「三十年」のような「きり」のいい数字ではないことから、考えられることといえば例えば「定年」に達したのではないかと言うことがあります。
 後の『養老令』の「官人致仕条」によれば「七十歳」になると「定年」となり「退官」できるとされています。(申告制のようです)
 このような制度は以前からあったものと思料され、この「六四一年」に「七十歳」になったものとすると、彼は「七十」−「二十九」=「四十一歳」の年である「六一九年」に「太宰府」の「典」として採用されたこととなります。この年次は「倭国年号」の「倭京」改元付近に相当しますから、その意味で整合性があるといえます。それまで「肥」の中にあったキから「筑紫」ヱ遷都したのがこの「倭京」改元に現れていると思われ、その時点以降の勤務と考えれば不自然ではありません。
 ただし、この当時に後の『養老令』と全く同じ「階級」(位階)があったと考えるわけではありませんが、いつの時代でも「職掌」と「階級」(位階)には自ずから関係があり、また「階級」が上がるのに年月を経る必要があるのもまた確かです。このことは、時代と状況が変わってもある意味「普遍」であり、「昇進のペース」というのは余り変わらないものと考えられます。
 『書紀』ではこの記事の前年の「六九〇年」に「位階」の増減に関してその「査定期間」を「六年間」とするという「詔」が出されています。

「(持統)四年(六九〇年)四年三月丁丑朔庚申。詔曰。百官人及畿内人。有位者限六年。無位者限七年。以其上日選定九等。四等以上者。依考仕令以其善最功能。氏姓大小。量授冠位。其朝服者。淨大壹巳下廣貳巳上黒紫。淨大參巳下廣肆巳上赤紫。正八級赤紫。直八級緋。勤八級深緑。務八級淺緑。追八級深縹。進八級淺縹。別淨廣貳巳上一冨一部之綾羅等。種々聽用。淨大參巳下直廣肆巳上一冨二部之綾羅等。種々聽用。上下通用綺帶白袴。其餘者如常。」

 このように勤務日数や勤務態度などで等級を定めて「量授冠位。」ということとすると言うわけですが、この記事の「四年前」に以下の記事があります。

「朱鳥元年(六八六年)春正月壬寅朔(中略)乙亥。勅選諸國司有功者九人授勤位。」
「六月己巳朔(中略)乙亥。選諸司人等有功廿八人増加爵位。」

 つまり、「功」があった諸司について「増加爵位」というわけです。つまり、ここで「勤務評定」を行っているわけですが、この記事から四年後に「今後は六年間を査定期間」とすると変更しているわけであり、それはその「六九〇年」という年が本来の査定期間終了年であったが故にその年に「年限変更」の「詔」を出しているものと考えられ、それまでは「四年間」が勤務評定の年限であったという可能性があると考えられるものです。
 「筑紫史益」は「長年にわたって勤務状況が特に優秀であった」とされているわけであり、そのために『書紀』内でただ一人それを理由に顕彰されているわけですから、査定期間である「四年」ごとに「昇進」し続けてきたものと考えられ、「七十歳」に至るまでそれが継続してきたという推測が可能でしょう。そうすると最終官位である「直廣肆」までの昇進の度合いと年数から考えて、二十九年間のうち四年ごとに昇進したと仮定すると「七ランク」上がったことになります。
 これを『大宝令』のランクに当て嵌めると「従七位上」からの昇進であったと推定できます。しかしこれは「大宰大典」の階級である「小六位上」より四ランクも低く、合致していません。
 そもそも「官人」はその採用において「初叙」の年齢である「二十五歳」になったときには「小初位下」から任官すると考えられ、「七十歳」まで勤めると「四十五年間」の年数が経過することとなります。この間「四年」ごとに「一ランク」ずつ昇進すると仮定すると、約「十一ランク」の増加となると思われ、計算によれば「小七位上」か「従六位下」付近までは昇進できると思われます。しかし、彼は最終冠位が「従五位下」であり、更に四ランク高くなっています。この事は彼の「初叙」の際の「官位」が「小初位下」ではなくもっと高かった可能性が考えられ、このことから、後の「式部省」において行われた「官人登用試験」のようなものがこの当時存在していて、これに「初叙」である「二十五歳」時に合格し「正八位上」ないし「正八位下」相当の冠位を与えられたと見ることが出来ると思われます。
 こう考えると「四十五年間」で十ランク程度の昇進となりますから、査定期間の四年間に一ランクずつ上がったとする想定とそれほど違わなくなります。そう考えた場合、「大宰府典」として勤続を開始したという「四十一歳」時点は六−七ランク上がった「小六位下」付近であったと考えられ、これは「大宰大典」の官位である「正七位上」とほぼ同じとなります。つまり、彼はこの時点で「大宰大典」として勤続を開始したこととなり、そこから「定年」に達する「二十九年間」を「優秀」な成績で勤め上げたというわけです。このことから彼の官人としてのスタートは(二十五歳からであったとすると)「五九六年」付近となります。
 この時期は「阿毎多利思北孤」による「全国統一」という事業が進行していたに加え「隋」との関係構築が「急務」になっていたことを考えると、新たな「冠位制」官僚制がスタートそれていたと思われます。
 『書紀』によれば「推古十一年」の暮れに「冠位」を制定し翌「推古十二年」の正月に「諸臣」にその「冠位」を各々に応じて与えたとされます。

(六〇三年)十一年…
十二月戊辰朔壬申。始行冠位。大徳。小徳。大仁。小仁。大禮。小禮。大信。小信。大義。小義。大智。小智。并十二階。並以當色■縫之。頂撮總如嚢。而著縁焉。唯元日著髻華髻華、此云于孺。

(六〇四年)十二年春正月戊戌朔。始賜冠位於諸臣。各有差。

 既に検討したようにこれらの記事は実際には約二十年ほど遡上すべきことが確実となっていることを考えると、五九〇年以降に採用され勤務を始めた「筑紫史益」も最下級の「小智」から始めたものと思われ、そこで「倭京」としての「筑紫」に「太宰府」ができるまで「肥」で「官僚」として過ごしたものと思われます。
 そう考えると、この時点における「顕彰」の持つ意味というものは単なる「皆勤賞」的なものではなく、新しく国土を統一した「倭国王」「阿毎多利思北孤」及び「利歌彌多仏利」に対する「忠義」に対してのものであったという意味もあると考えられます。それは「顕彰」の理由として「清白忠誠不敢怠惰」とあることからも窺えます。

 ここにいう「清白忠誠」という語が、必ずしも友好的ではなかった人(あるいは勢力)が、その後方針を変え友好的となった場合においてそれ以降「誓約」として「清白忠誠」を課せられるというケースが確認できることから、「阿毎多利思北孤」の政治方針がかなり急進的なものであり、それに対抗する勢力などもあったことが推定でき、彼らがその後倭王権に下ったと想定した場合、「清白忠誠」を厳しく査定されたということも考えられます。「筑紫史益」はそのような中で「倭王権」(この場合「利歌彌多仏利」か)に非常に協力的であり、責務を全うしたことから顕彰されることとなったと考えられます。


(この項の作成日 2012/06/06、最終更新 2019/06/23)