ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:

「多禰」等南島との交渉について


 『書紀』『続日本紀』には「多禰」(種子島)などの「南島」との交渉が書かれています。
それを見るといくつか疑問とする点が浮かびます。
 以下に「多禰」との交渉が書かれた記録を列挙します。

@「(天武)六年(六七七年)二月是月条」「饗多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下。」

A「(天武)八年(六七九年)十一月丁丑朔己亥条」「大乙下倭馬飼部造連爲大使。小乙下上村主光欠爲小使。遣多禰嶋。仍賜爵一級。」

B「(天武)十年(六八一年)八月丁卯朔丙戌条」「遣多禰嶋使人等貢多禰國圖。其國去京五千餘里。居筑紫南海中切髮草裳。粳稻常豐。一爼兩收。土毛支子。莞子及種々海物等多。…」

C「(天武)十年(六八一年)九月丁酉朔庚戌条」「饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊。奏種種樂。」

D「(天武)十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午条」「隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
「同月丙辰条」「多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。」

E「(天武)十二年(六八三年)三月戊子朔丙午条」「遣多禰使人等返之。」

F「(持統)九年(六九五年)三月戊申朔庚午条」「遣務廣貳文忌寸博勢。進廣參下譯語諸田等於多禰。求蠻所居」

G「(文武)二年(六九八年)夏四月壬辰壬寅条」「遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。」

H「(文武)三年(六九九年)秋七月辛未条」「多■。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。其度感嶋通中國於是始矣。」

I「(文武)三年(六九九年)十一月辛亥朔甲寅条」「文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。」

J「(文武)四年(七〇〇年)六月庚辰条」「薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。」

K「(大寶)二年(七〇二年)八月丙申朔条」「薩摩多■。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。授出雲狛從五位下。」

 以上を見てみるとFの記事の中に「求蠻所居」という文章があるのが気になります。これは「どのようなところに彼等が住んでいるのか」という地理的情報を探りに行くというように理解できますが、そのようなものは既にそれ以前にBの段階で得られていると見られます。
 そこには明瞭に「京」などからの距離と位置など地理情報及び特産物や風俗などの知見が書かれており、さらにここにはその概要だけが書かれているとすると、別に詳細情報が報告されていたと見るべきですが、そのことはF時点で改めて同じ目的で使者を派遣する意義が不明とならざるを得ないものです。

 またEの記事については「大系」の「注」では「発遣年次未詳」とされ正体不明の扱いとなっています。

さらにFの記事とGの記事は使者の名前も官位も全く同じであり、三年開けて再び派遣されてとするのは少なからず「不審」といえるでしょう。通常このような「遠距離」の地にしかも「未開」の場所に行くというのは「半島」への使者などよりも遥かに危険が多いと考えられるわけであり、いわゆる「絶域に奉仕」したという場合に相当するでしょうから、当然Fの派遣記事から帰国した時点で「進階」すると考えられますが、実際にはその三年後のGの段階でも「官位」に変化がないとすると、この二つの記事は同じ事実を記録したもの(重出)と考えられるでしょう。
 つまり、これらの「不審」を整合的に理解しようとすると「年次移動」を考慮して時系列を並べ替える必要があると思われるわけです。

 それを裏付けるのが「下譯語諸田」という人物の存在です。その「氏」から考えて彼は「通訳」として同行していたものと考えられますから、いったい何語の通訳だったのでしょうか。そもそもこの使者派遣に「通訳」が必要と当初は認識していたこととなります。しかし、上の記事から見てそれ以前から「多禰」との交渉は継続していたわけであり、通訳が必要かどうかは知っていたはずです。これについては確かに「方言」はあったでしょうが、現在もそうですが、「通じない」ほどとは考えられません。
 今は「共通語」と「方言」と二分化していますが、当時「薩摩」と「多禰」との間で大きな言語上の違いがあったとは考えられません。
 現在の「沖縄方言」も古代の日本語の面影を残しているとされていますから、途中にある「多禰」(種子島)「阿麻彌」(奄美諸島)などもそれらと同一言語圏であったはずであり、当時の中央語に近かったという可能性もあります。つまり通訳が必要であったとは甚だ考えにくいものです。
 もし、これが「多禰」以外の地方の為のものであったとしても「掖玖人。阿麻彌人。」は既に来倭の実績があるわけですから「多禰」と状況は同一であったと考えられ、いずれにせよ「通訳」が同行する必要性があったかは疑問であるといえます。
 しかし、これが「第一回」の派遣ならば首肯できるものです。まだ「多禰」などと正式な交渉がない状態であれば、いわば「手探り」の様な中で派遣されたわけであり、彼等はともかくその周辺の人々がどのような言葉を話すのかさえ知見がなかったとすると、「中国語」や「朝鮮語」などの通訳を(とりあえず)同行したということではないでしょうか。

 年次の移動を考慮して時系列を並べ替えると以下のようになります。

(以下中では『天武紀』記事の時系列はそのまま変わらないと思われます。)

F「(持統)九年三月戊申朔庚午条」「遣務廣貳文忌寸博勢。進廣參下譯語諸田等於多禰。求蠻所居」
J「(文武)二年夏四月壬寅。遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。」
この両記事は(結果的に)重出となるものと思われます。このような場合先に書かれた方が正しい記事で、後のものが重出の対象と考えられます。さらに後続の記事との時系列としての関連を考慮すると『持統紀』記事は「六四一年』付近に元々の位置を措定すべきこととなり、この場合は五十四年程度の遡上と見られることとなります。

B「(文武)三年(六九九年から五十七年遡上により六四二年へ)秋七月辛未。多■。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。其度感嶋通中國於是始矣。」

E「(文武)三年(六九九年から五十七年遡上により六四二年へ)十一月辛亥朔甲寅。文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。」

@「(天武)六年(六七七年→六四三年か)二月是月条」「饗多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下。」

E「(天武)十二年(六八三年→六四三年か)三月戊子朔丙午条」「遣多禰使人等返之。」

F「(文武)四年(七〇〇年から五十七年遡上により六四三年へ)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。」
 ここの記事はこの年に起きたことではなく「刑部真木」の報告によるものと推定され、彼等が南の島へ行った際の薩摩ないしは肥においての出来事と推察されます。

A「(天武)八年(六七九年→六四五年か)十一月丁丑朔己亥条」「大乙下倭馬飼部造連爲大使。小乙下上村主光欠爲小使。遣多禰嶋。仍賜爵一級。」
 この記事は「大使」「小使」という語が使用されていることでも明らかですが、前年「真木ら」に引率されて上京した「多禰」からの使者の帰途に併せ再度正式な交渉をするためのものとして派遣されたものと見られます。

K「(大寶)二年(七〇二年から五十七年遡上により六四五年へ)八月丙申朔。薩摩多■。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。授出雲狛從五位下。」
 ここでは「多禰」が「薩摩」と共に反乱を起こしていますが、「大使」と「小使」の派遣された内実、つまり対等な外交ではなく属国とされることへの反発があったのではないかと推測され、それに対し(多分「太宰府」から)兵を出した事を示していると思われます。

B「(天武)十年(六八一年→六四七年か)八月丁卯朔丙戌条」「遣多禰嶋使人等貢多禰國圖。其國去京五千餘里。居筑紫南海中切髮草裳。粳稻常豐。一爼兩收。土毛支子。莞子及種々海物等多。…」
 ここでは「多禰」に対する制圧策が成功し、版図を押さえたことがその報告に反映していると思われます。

C「(天武)十年(六八一年→六四七年か)九月丁酉朔庚戌条」「饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊。奏種種樂。」
 結局帰順することとなった「多禰」に対し懐柔策として宴を設け楽を奏したことと思われます。

D「(天武)十一年(六八二年→六四八年か)秋七月壬辰朔甲午条」「隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
「同月丙辰条」「多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。」

 上のように新たに並べ替えると次のような流れが推定できます。
@まず始めに南島へ「求蠻所居」として偵察及び覓國のための人員を送ったこと、A「從朝宰」という表記からわかるように派遣された人員の帰国に「南島諸国」の朝貢使が同行したとみられること。B派遣された使者は前後に分かれて帰国したものと見られ、使者団の長たる「文忌寸博士」「刑部真木」等が遅れて帰国したとみられること。C始めてのため「正使」と「副使」というような正式の使者の形式を踏んでいること。この時の使者(朝宰)の帰国に従って「多禰」他の「南島」からの「朝貢」が行われたこと。この時の「朝宰」達が「多禰」の地図など詳細情報を入手して報告したこと。それに対し「大隅」「阿多」などの隼人達と一緒に多禰や奄美から「朝貢」が来ており、馴化されていたこと。「多禰」の帰国に「文忌寸博勢」達が同行した(しようとした)事(帰国は一年延びたか)、「文武三年記事」に出てくる「朝宰」も「務廣貳文忌寸博士等八人」のことと見られ、彼等の帰国に「多■。夜久。菴美。度感等人。」などの人間を同行させたと考えると記事の流れが自然となります。その彼等が「南島」から持参したものが「多禰の地図」であり、また「特産物」などを記した報告書であったと思われ、これがE記事となったと思われます。
 また、その後彼等を歓迎する宴が開かれたものであり、それがFの「天武十年記事」となったと見ることができるでしょう。そこに「多禰嶋人等」というように「多禰」以外のものもいるように書かれているのは、Dで同行した「夜久。菴美。度感等人。」のことを指すと考える事ができると思われます。
 彼等の置かれた状況や国力などがわかると、これを正式に「版図」に組み込もうとしたものと思われ、そのためには「武力行使」も辞さないという姿勢で臨んだのがGの「刑部眞木」等が派遣された「天武十一年記事」と思われます。
 この「刑部」という「氏」がその職掌を表しているのは間違いなく、この派遣により「警察権」等「強制力」を伴った「倭国版図」への編入を目指していたものと見られます。
 そして、そのようなある意味一方的で強制的な行動は必ず「衝突」と「紛争」を招くものであり、それが現実となったのがHの「薩末比賣」達の反抗であったと思われることとなります。

 ところで、当然これらの出発地点は「筑紫」を起点としていると思われますが、それは「多禰」が「其國去京五千餘里」とされていることからも分かります。この当時の「里」が仮に「隋・唐」の一里である「四三〇〜四四〇メートル程度」あったとすると、「多禰」〜「京」間の実距離は(仮に五千餘里を五一〇〇里として)計算すると約二二〇〇キロメートルとなりますが、そもそも日本列島を縦断しても三〇〇〇キロメートルにしかならず、二二〇〇キロメートルという距離は優に東北に達する距離となって、これを概数としても現実的ではありません。
 それに対しこの時点で「短里」であったとすると約その六分に一程度に短くなりますから、三八〇キロメートル程度になりますが、「種子島」から「筑紫」(太宰府)までの距離は約三九〇キロメートルほどとなり非常に高い一致を示します。


(この項の作成日 2013/03/09、最終更新 2014/11/17)