『書紀』の「六九一年」以降に「新益宮」と「藤原宮」に関連する記事が出てきます。
「新益京」記事
「六九一年」五年冬十月戊戌朔甲子条」「遣使者鎭祭『新益京』。」
「六九二年」六年春正月丁卯朔戊寅条」「天皇觀『新益京』路。」
「藤原宮」記事
「(持統)四年(六九〇年)冬十月甲辰朔壬申条」「高市皇子觀藤原宮地。公卿百寮從焉。
「同年十二月癸卯朔辛酉条」「天皇幸藤原觀宮地。公卿百寮皆從焉。」
「六九二年」六年五月乙丑朔丁亥条」「遣淨廣肆難波王等鎭祭藤原宮地。」
「(持統)六年(六九二年)六月甲子朔壬申条」「勅郡國長吏。各祷名山岳涜。遣大夫謁者。詣四畿内請雨。賜直丁八人官位。美其造大内陵時勤而不懈。天皇觀藤原宮地。」
「(持統)七年(六九三年)八月戊午朔条」「幸藤原宮地。」
「(持統)八年(六九四年)春正月乙西朔癸卯条」「唐人奏踏歌。乙巳。幸藤原宮。即日還宮。」
「同年十二月庚戌朔乙卯条」「遷居藤原宮。」
ここに出てくる「新益京」に関しては、従来は「藤原京」との関連で語られるのが「常」であり、定説になっているようです。しかし、下層条坊遺構から考えると、この時点で「京」という名に値する「条坊」が既にある程度できていたと見られ、それに対し「六九一年」という時点で「鎭祭」つまり「地鎮祭」と思われる儀式を行なっているわけですが、現在でも「地鎮祭」というのは「鍬入れ儀式」のように「更地」つまりまだ工事の手の入っていない状態に対して行なうものであり、「開発」を行なうにあたっての安全とその場所の土地神に対する「畏敬」を込めて行なうものと思われ、既に条坊がある程度できていたとすると、「鎭祭」の趣旨に大きく反するものといえます。つまり、この記事が「藤原京下層条坊」に関連するものと考えると、実態と齟齬するものではないでしょうか。
また、その後(翌年)今度は「藤原宮」に対して同様に「鎭祭」を行なっていますが、現在まで確認されている「藤原宮」遺跡の発掘からの「考古学」的帰結としては、「宮域」の確定や「宮殿」の完成などの「宮」に関する事の進捗がかなり遅れたと見られ、「八世紀」に入ってから建物が建ち上がっているように見えることから考えて、この時点で「鎭祭」を行なったというのは、逆に「早すぎる」といえます。(これが実際には「仮の宮」として「掘立柱型式」で立てられたとすると、それほど早くははないのかもしれませんが)
少なくとも「六九〇年」を少し超えたような時期の「藤原京」には「宮」と呼べるような「宮殿」は姿を現わしていなかったのは確かであると見られます。
既に考察したように、「第二次藤原宮」としては「六八四年」の「西日本大震災」の後にはある程度形が整えられたと思われますが、「六八九年」以降再度「宮殿」を造ることとなった(遷宮か)と見られ、解体されたと見られます。そして、それが「建ち上がった」のは「八世紀」に入ってからのことであり、ここに書かれたようなスケジュールでは進行していなかったことは確かであると考えられます。つまりこの「新益京」についての記事は「藤原京」ではないという可能性が高いと思われますが、その場合考えられるのは「筑紫京」です。
『書紀』の解析によっても「新益京」というのは「倭国王」の「所在」しているところ(それが「倭京」であると思われます)から「ほど近い」ということが推定されます。そこでは「幸」という用語が使用されていますから、それほど遠距離ではないことがわかります。
「倭京」という言葉は「難波京」や「近江京」の「対極」にあるものとして使用されているものであり、「字義」から見ても明らかに「倭国」の首都、「倭国王」の所在するところという意味を持つ名称であると考えられますが、「壬申の乱」記事に拠れば「大海人」は「吉野」へ下る際に「倭京」を経由しています。そしてそこには「嶋宮」があるとされています。
この「吉野」が「筑後」(正確には「肥前」であるが)「吉野ヶ里」のことを指すと推察される事は既に述べましたが、そうであれば「筑紫都城」が「倭京」であるという理解に容易に到達します。
これを「飛鳥」の地を「倭京」とする考え方ではひとつには「条坊」の有無が決定的な意味を持っているものであり、「飛鳥」はその意味で「京」ではないということが明白であるのは言うまでもありません。
これらの「新益京」記事は「年次移動」を想定すると「四十七年遡上」した「六四四年」と「六四五年」の記事であることとなりますが、そもそも「新益京」とは、「新たに増えた」という意味があると思われ、「筑紫都城」はこの時期「難波宮」と相前後して「再整備」され、「都域」が拡大されたものと見られることと整合するといえます。
既に見たように、元々の「筑紫都城」(「大宰府政庁『プレ第一期』でも呼称すべきでしょうか)は遺跡から確認される「大宰府政庁第一期」の「右郭」の半分程度であったと見られ、これを一気に拡大して現在遺跡としてみられる範囲となったと考えられます。このような整備内容は「新益京」という名称にふさわしいものである事は確かです。
この「都城」整備(新宮殿)にはまだ「瓦」などが使用されていなかったと見られ日本古来の建築様式が採用されていたと見られますから、年代推定などが困難ですが、逆に「瓦」を使用した「大宰府政庁第U期」が種々の推定から、「六八〇年代」半ばと考えられますから、「政庁第T期」はこれを「一世代」程遡る「六五〇年」付近と推定するのが妥当ではないかと思われます。そう考えると、「難波宮」の築造と相前後している可能性が高く、同時整備であった可能性を示唆します。
「副都整備」と前後して「首都整備」が行われたと見るのは蓋然性が高い想定でありどちらも「瓦」を使用しない「板葺き」構造であったと思われ、様式などが近似している理由でもあると思われます。
そしてこの時整備された「宮殿」が「清原大宮」であり、「飛鳥浄御原宮」という名称であったと考えられるものです。
(上に見るような「六九一年」以降『書紀』に出現する「藤原宮」という名称は「清原宮」を書き換えているという可能性が高いと考えられます)
(この項の作成日 2013/01/18、最終更新 2015/04/15)