『書紀』の「六九二年」に「持統天皇」が「伊勢行幸」を計画した際に「中納言直大貳三輪朝臣高市麿」という人物が「農事」を行う季節であるから行くべきではないと「諫言」したという記事があります。
@「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未条」「詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。」
「同年同月乙卯条」「…是日『中納言直大貳三輪朝臣高市麿』上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。」
「同年三月丙寅朔戊辰条」「以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。『中繩言三輪朝臣高市麿』脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之」
この「三輪朝臣高市麿」という人物は、それ以前の「天武天皇」が崩御された際の「殯」の場で「誄」を読んでいる記事があります。
A「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔乙丑条」「諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次『直大肆(従五位上相当)大三輪朝臣高市麻呂』誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆■原朝臣大嶋誄兵政官事。」
さらに『続日本紀』の「七〇二年」の条には「長門守」として任命されています。
B「(大寶)二年(七〇二年)春正月己巳朔乙酉条」「以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿。正五位下美努王爲左京大夫。正五位上布勢臣耳麻呂爲攝津大夫。從五位下當麻眞人橘爲齋宮頭。『從四位上大神朝臣高市麻呂』爲長門守。正六位上息長眞人子老。丹比間人宿祢足嶋並授從五位下。」
続いて「七〇三年」には「左京大夫」となったという記事となり、「七〇六年」に亡くなったという記事で終わります。
C「七〇三年」三年六月乙丑条」「以『從四位上大神朝臣高市麻呂爲左京大夫』。從五位下大伴宿祢男人爲大倭守。從五位上引田朝臣廣目爲齋宮頭兼伊勢守。」
D「七〇六年」三年二月庚辰条」「左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒。以壬申年功。詔贈從三位。大花上利金之子也。」
これらの記事に出てくる「高市麻呂」の「氏」についてみてみると、その名称が「六八六年記事」では「大三輪」とされているのに対して、「六九二年」記事では単に「三輪」となっています。更にそれが「七〇二年記事」では再び「大三輪」(「大神」)と戻っているように見えます。これらについては、その変化には特に気を留めるような議論はなく、「三輪」も「大三輪」(大神)も「同じ」とされているようですが、これは何らかの功労や「冠位」などの昇進との関連が考えられるのではないでしょうか。
つまり「元々」「三輪」であったものが「大三輪」(大神)へ「昇格」したと考えることができるのではないかと思われるのです。
他の氏において「大」が付いても付かなくても同じというのは確認できませんから、(他の氏たとえば、「巨勢」氏の場合決して「大巨勢」とは呼ばれません)「大」が付く付かないというのは実はかなり重要ではないかと考えられ、それは「平安時代」になって、「大伴」が「伴」に改称されるというような事があった例からもわかるように、「明確」な「理由」があってのものと思われます。
この事からこの記事の時系列配列については先後が逆という可能性があると思われます。上の「六八六年」の「大三輪」記事については「三十五年遡上」の対象と考えられますから、「六五一年」に置かれるべき記事と見られますから、「六九二年」の「三輪」記事はそれ以前に遡上すると思われ、移動年数として「四十年以上」を措定する必要があります。つまり「六九二年」の記事は「五十年程度」の遡上が考えられ、実際には「六四二年」付近であったと考えられます。また「七〇二年記事」は『文武紀』全体として「六十年程度」の遡上を措定すべきですから、「六五〇年」付近の記事であったと思われ、これらを考慮して記事を並べ替えると以下のようになります。
(六九二年から五十年程度「六四二年」付近)「中納言直大貳三輪朝臣高市麿」
(七〇二年から六十年程度遡上して「六四二年」付近)「從四位上(直大弐相当)大神朝臣高市麻呂」
(七〇三年から六十年遡上して「六四三年」)「從四位上(直大弐相当)大神朝臣高市麻呂爲左京大夫」
(七〇六年から六十年遡上して「六四四年」)「左京大夫從四位上(直大弐相当)大神朝臣高市麻呂卒」
(六八六年から三十四年遡上して「六五二年」)「直大肆(従五位上相当)大三輪朝臣高市麻呂」
以上のように、「氏」の名称変化については、この「年次復元」により「三輪」→「大三輪」(大神)→「大三輪」と「自然」なものとなります。(冠位の変遷の矛盾は後の潤色によると考えられます)
つまり「六四二年」付近で何らかの功労を認められ、「大」が付加されて呼称されることとなったと見られますが、この「変化」については、「諫言」事件と関係があるのかも知れません。このように「職」を賭して「諫言」した事が、結果的に「功労」として認められたという可能性もあります。
この記事が「七世紀半ば」の「難波副都」の時期であるという推定を補強するのが同じ「六九二年記事」の中に現れる「刑部省」と「七〇二年」記事中の「西閣」という表記です。
「刑部省」については「六九〇年」の記事中に「解部」増員記事の際に出てきますが、これは「三十四年遡上」対象記事であり、「六五六年」のことと考えられます。このことは『書紀』中の「刑部省」記事は全体として「七世紀半ば」のことと考える余地がある事を示します。
「和銅元年(七〇八年)閏八月丁酉条」「攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。」『続日本紀』
「大宝二年条 参議 従四位上 高向朝臣麿 同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿大花上国忍之子。」『公卿補任』
上で見るように「高向麻呂」の死去した時点の情報として「難波朝」の「国忍」の子であるというものと同時に、「難波朝」における「官職」及び「組織」が記されており、これは確かに「刑部省」も「刑部尚書(卿)」も当時存在していた事を示すものものであり、この事は「六九二年」という年次から「七世紀半ば」まで記事を「復元」して考えて「矛盾」を生じるものではないことを示します。
また「七〇二年記事」中には「癸未。宴群臣於西閣。奏五帝太平樂。極歡而罷。賜物有差。」という記事が存在しますが、これについては以下に見る「七〇一年」の記事中に「西高殿」という表記があり、これがこの「西閣」と同じものを指すものと見られます。
「大寳元年(七〇一年)六月壬寅朔丁巳条」「引王親及侍臣。宴於西高殿。賜御器膳并帛各有差。」
確かに「藤原宮」には「高楼」があった可能性が発掘の結果出て来ていますが、この「七〇二年」という段階でそれが完成していたかは疑問とされます。それは出土した木簡などの解析から、この段階では「高楼」はおろか「大極殿」も「回廊」も未完成であった可能性が指摘されているためであり、そうであるとするとこの記事中の「西閣」が「藤原宮」のものではない可能性が高くなりますが、それ以前に「閣」あるいは「高殿」と言えそうな高い建物は「難波宮」にしかありませんでした。
「難波宮殿」には「八角円堂」(楼)が「東西」に二棟存在していた事が「遺跡」の発掘から確認されています。つまりこれらは「難波宮殿」に関する記事である可能性が高いものと考えられ、この「八角円堂」のうちの「西側」のものを指す可能性が高いことを示します。
これらの例はいずれも『書紀』と『続日本紀』において「年次移動」という「粉飾」が大々的に行なわれている可能性が高いことを示すものと考えられます。
(この項の作成日 2013/01/16、最終更新 2017/05/11)