ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:『書紀』の天武・持統紀における「記事移動」に関して:

「秦造」に関する事


 『書紀』に「秦造綱手」に関する記事があります。
(以下に『書紀』の「秦造」記事を列挙します。)

「(推古)十八年(六一〇年)丁酉条」「客等拜朝庭。於是。命『秦造河勝』土部連菟爲新羅導者。以間人連臨蓋。阿閇臣大篭爲任那導者。共引以自南門入之立于庭中。時大伴咋連。蘇我豐浦蝦兩臣。坂本糠臣。阿倍鳥子臣。共自位起之進伏于庭。於是。兩國客等各再拜以奏使旨。乃四大夫起進啓於大臣。時大臣自位起。立廳前而聽焉。既而賜祿諸客。各有差。」

「(皇極)三年(六四四年)秋七月条」「東國不盡河邊人大生部多。勸祭虫於村里之人曰。此者常世神也。祭此神者。到富與壽。巫覡等遂詐託於神語曰。祭常世神者。貧人到富。老人還少。由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側。而使呼曰。新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座。歌舞求福。棄捨珍財。都無所益損費極甚。於是。葛野『秦造河勝』惡民所惑。打大生部多。其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰。禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屡。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。此虫者常生於橘樹或生於曼椒。曼椒。此云衰曾紀。其長四寸餘。其大如頭指許。其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。」

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔戊辰条」「古人皇子。與蘇我田口臣川掘。物部朴井連椎子。吉備笠臣垂。倭漢文直麻呂。朴市『秦造田來津』謀反。或本云。古人大兄。此皇子入吉野山。故或云吉野太子。垂。此云之娜屡。」

「斉明七年(六六一年)九月条」「皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下『秦造田來津』。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。」

「天武元年(六七二年)六月辛酉朔己丑条」「天皇往和■。命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先『秦造熊』令犢鼻。而乘馬馳之。」

「天武九年(六八〇年)五月乙亥朔乙未(二十一日)条」「大錦下『秦造綱手』卒。由壬申年之功贈大錦上位。」

「天武十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。刑部造。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。『秦造』。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」

「天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午条」「大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。『秦連』。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。」

「朱鳥元年(六八六年)八月己巳朔辛巳条」「遣『秦忌寸石勝』奉幣於土左大神。是日。天皇太子。大津皇子。高市皇子。各加封四百戸。川嶋皇子。忍壁皇子。各加百戸。」

「持統十年(六九六年)五月壬寅朔甲辰(三日)条」「詔大錦上『秦造綱手』。賜姓爲忌寸。」

 これらの記事を見てみると、『書紀』の「持統十年(六九六年)条」に記されている「秦造綱手」への「忌寸」賜姓記事が気になります。
 この「秦造綱手」は上でみるように「天武九年(六八〇年)条」にその死去の記事があり、その時点で「大錦下」から「大錦上」へ「昇進」されています。ですから、この『持統紀』の記事は「死後追賜」となるわけですが、「秦造」氏は「天武十二年」と「天武十四年」にそれぞれ「造」から「連」、「連」から「忌寸」というように「改姓」されており、ここで改めて「忌寸」を与えたという記事は不可解です。
 彼が存命中には「造」であったから、死後改めて「忌寸」姓を与えたものと理解できなくはないですが、それが「死去」してから十六年後という時点で行なわれたという、その理由が全く不明と思われます。
 「忌寸」姓を与えるのであれば、「秦氏」を含む各氏に「改姓」を行ない「忌寸」姓を賜与した「天武十四年」という段階付近で行なうのが最も適切なタイミングであったはずです。そこからはるかに下った『持統紀』に入ってから「唐突」に行なわれる事となった事情が不明であり、理解に苦しむものです。
 
 しかし、この「秦造」氏の場合も『書紀』の記事移動を背景として考えると整合すると思われます。つまり彼が死去したという「天武九年」記事については「三十四〜四十年程度」の遡上があると推察され、「実際」には「六四六年」付近の事と考えられるのに対して、「忌寸」を「賜」したという「持統十年」記事も前項で述べたように、「四十五〜五十年」程度の遡上が考えられると思われますから、「六五〇年」付近の記事となるでしょう。(死後数年後に「忌寸」が追賜されたもの。)
 また「秦造」を含む「諸氏」への「忌寸姓」賜与記事についても三十五〜四十年程度の遡上が想定されるわけですから、これは「六五〇年」付近の年次のこととなり、「秦造綱手」への「忌寸」姓賜与とほぼ同年次付近のこととなります。つまり、死去した時点で冠位が「大錦上」に格上げされた後(数年後)「諸氏」に「忌寸」姓が授与されてまもなく他の「秦氏」と同様「故人」となった「秦造綱手」についても「忌寸」姓が与えられたこととなったとみられるわけであり、改姓のタイミングとしては『持統紀』よりも数段合理的と考えられ、理解できるものです。
 このような理解が成立するとした場合やはり『書紀』には記事移動があると共に、『持統紀』の前半と後半でその移動年数が異なると見る立場に合理的な根拠があることとなるでしょう。
 
 この「忌寸姓」賜与が行なわれた「六四九年」という年次はその前年に「唐」との関係改善を図るために「国書」を「新羅」に託して奏上した年次でもあり、このような工作が不調に終わった場合、首都が筑紫にあることの危険性を考慮して「難波」への本格遷都を計画していた時点でもありますから、「東国」の勢力に対する「懐柔策」も当然あったはずと考えられ、その意味で「諸氏」への「忌寸姓」追贈という事も行なわれたものではないでしょうか。
 こう考えることで、「造」と「忌寸」の前後関係の問題は解消することとなります。


(この項の作成日 2013/01/18、最終更新 2015/08/14)