既に「田中法麻呂」については七世紀半ばの「倭国王」の「喪使」として「新羅」に派遣された可能性について考察したわけですが、彼は派遣時点で「直廣肆」であったとすると、「山陵」造営時点は「直大肆」となっていますから、当然派遣の時期はそれ以前ということとなるでしょう。
ところで「田中法麻呂」は「越智山陵」の修造に関わったとされていますが、この「越智」が「伊豫」の「越智」であるという可能性も考えられるところであり、彼は「山陵」の修造後「伊豫国司」として現地に残ったものと考えることができるでしょう。(元々の出身地がこの「伊豫」であったという可能性もありえます)そしてその後「伊豫」に止まり「白銀」献上という貢献により「総領」となったというわけですが、すでに述べたように「金春秋」の官位の変遷からの推定として「田中法麻呂」が「喪使」として派遣されたのはまだ「金春秋」が「翳?」(「伊餐」とも)の頃と推察されることとなっています。
彼(金春秋)は「六〇三年」の生まれですが、両親とも「新羅王」の子供であり、若い頃から高い官職を得ていたものと推測されます。そう考えると、「巨勢稲持」が喪使として派遣されたのはかなり時代を遡上するものとしても不審ではなく、概数的に六四〇年代が想定できるでしょう。(六二二年の「上宮法王」(これは「阿毎多利思北孤」と見なすことが可能)の死去時点ではまだ未成年となり、さすがに非現実的です。)
これに関しては『隋書俀国伝』によれば「利歌彌多仏利」は「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)「倭国王」であったとみるべきであり、彼の死去に際して「喪使」として「新羅」へ派遣されたのが「巨勢稻持」であったと見るのが相当でしょう。その年次としては「六四七年」に「九州年号」では「常色」に改元されており、この年次に倭国王交代があったと見ることもできそうです。そう考えると「田中法麻呂」が喪使として派遣されたのは「利歌彌多仏利」の次代の王の死去に関わるものであり、『新唐書』で「未幾」と称された「白雉改元」の王である可能性が高いものと推量され、死去した年次としては「六五二年」がもっとも有力ですが、「喪使」はその「翌年」明けてすぐに派遣されたとみるのが相当であり、「六五三年」が推定できます。このとき「田中法麻呂」が派遣されたとすると「六八七年」―「六五三年」=「三十四年」という遡上年数が措定できますが、これは奇しくも「正木氏」の唱える「三十四年遡上説」に合致します。
また、官位の変遷から考えると「直廣肆」が彼の官位として見える最低ランクですから、「遣新羅使」としてスタートすると自然であり(それは同時に派遣された「守君苅田」が「追大貳」という低位の官人であることとバランスしていることでもわかります)、中央官人として存在していた彼が「喪使」として派遣され、帰国後その褒賞として位階が上がり、「直大肆」となったとみるのが自然です。その後「越智山陵」の修造に関わったものと思われるわけですが、その後「伊豫国司」としてそのまま現地で赴任したものではないでしょうか。そして、その後「白銀」献上の功績があり、それにより四国全体を総括する「伊豫総領」に昇進したと見ると全てが整合すると思われます。いずれにしても「総領」記事がもっとも後年のものと考えるべきでしょう。
以上を踏まえて実際の年次を推定すると以下のような流れになるのではないでしょうか。
①「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔甲申条」「使『直廣肆』田中朝臣法麻呂。與追大貳守君苅田等。使於新羅赴天皇喪。」
②「(文武)三年(六九九年)冬十月辛丑条」「遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。『直大肆』田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。」
③「(持統)五年(六九一年秋七月庚午朔壬申条是日条」「『伊豫國司』田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。■一篭。」
④「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅朔辛丑条」「詔『伊豫惣領』田中朝臣法麿等曰。讃吉國御城郡所獲白燕。宜放養焉。」
以上のうち③はいろいろな状況からみて「遡上年数」として「五十年程度」の数字が措定され、「六四一年」付近のこととなります。また上に見たよう①は「三十四年遡上」して考えるのが妥当と思われますから、④についても同様の数字を措定するのが自然であり、「六五五年」のことであったらしいことが想定できます。つまり同じ『持統紀』でも「六九〇年」付近を境に移動年数に大きな差があるらしいことが考えられ、それは『書紀』の成立事情(あるいは「潤色」の時期と方法)に複雑なものがあったことを示すものです。その点を別の記事から見てみることとします。
「六九四年」に「刑部造」が「白山鷄」を捕らえて献上したという記事『書紀』にあります。
「(持統)八年(六九四年)六月癸丑朔庚申条」「河内國更荒郡獻白山鷄。賜更荒郡大領。小領。位人一級。并賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國。并賜物」
ここでは「河内国」で「白山鷄」を捕らえた功績を受けた人物として「刑部造韓國」がいると書かれています。ところが、この「刑部」を含む「三十八氏」に対して「連」を賜ったという記事が『天武紀』にあります。
「(天武)十二年(六八三年)九月乙酉朔丁未条」「倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。藤原部造。『刑部造』。福草部造。凡河内直。川内漢直。物部首。山背直。葛城直。殿服部造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目舍人造。桧隈舍人造。大狛造。秦造。川瀬舍人造。倭馬飼造。川内馬飼造。黄文造。薦集造。勾筥作造。石上部造。財日奉造。泥部造。穴穗部造。白髮部造。忍海造。羽束造。文首。小泊瀬造。百濟造。語造。凡卅八氏。賜姓曰連。」
つまり、この「賜姓」時点以降「刑部造」は「刑部連」に改姓されたこととなるはずですが、上の「白山鷄」献上記事はそれとは矛盾するものです。彼は既に「連」姓を賜っているはずですが、相変わらず「造」姓であるように書かれています。
この「矛盾」についても従来余り気にされていないようですが、これも記事移動の結果と考えることができるものであり、「連」への改姓が書かれた「六八三年記事」は「三十四年遡上」の対象記事であるとすると「六四九年」へ移動することとなりますから、「刑部造」という人物の存在が記される「六九四年記事」はこの年次よりも遡上する必要があることとなります。そうすると「最低」でも「四十五年」遡上する必要があることとなり、上の「五十年程度」の遡上という推定とそれほど違わないということとなります。
(この項の作成日 2013/01/15、最終更新 2017/05/11)